マラルメとの親交
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 07:47 UTC 版)
「エドゥアール・マネ」の記事における「マラルメとの親交」の解説
マネは、1873年頃、詩人ステファヌ・マラルメと知り合い、親しくなった。1875年、マラルメがエドガー・アラン・ポーの『大鴉』を訳した時、その挿絵のためにリトグラフを制作した。翌1876年には、マラルメの『牧神の午後』の挿絵のために木版画を制作した。 マネは、1876年のサロンに、『洗濯』と、マルスラン・デブータンを描いた『画家』を応募したが、落選した。そこで、マネは、個展を開き、これらの落選作を公開した。招待状には、金色の文字で、「ありのままに描く、言いたいように言わせる」と書かれていた。この個展には、1日に400人もの来場者があり、新聞は大々的に報じた。「なんということ! 目鼻だちがすっきりとして、おだやかなまなざしをした、手入れされたブロンドのひげのこの紳士、[中略]パリッとしたシャツを着て、きちんと手袋をはめたこの紳士が、ボート遊びをする人びと[『アルジャントゥイユ』]の作者なのだ!」と驚きをもって伝えており、相変わらずマネの作品に対する評価は低かった。 一方、マラルメは、『洗濯』について、「おそらく画家[マネ]の経歴において、そして確実に美術史上、時代を画する作品」だと賞賛した。マネは、マラルメに肖像画を贈り、マラルメはこれをずっと自分の家に飾っていた。マラルメは、ボードレール、ゾラに続くマネの擁護者としての役割を果たした。マネの死後、マラルメは、マネについて次のように述べている。 失望のなかにも、[中略]男らしい無邪気さがあった。つまり、カフェ・トルトーニでは、からかい好きで、粋な人間だった。その一方、アトリエでは、まるで一度も絵を描いたことがないかのように、白いカンバスに激情を投げつけていた。 — ステファヌ・マラルメ、『とりとめのない話』「マネ」 『洗濯(フランス語版)』1875年。油彩、キャンバス、145 × 115 cm。バーンズ・コレクション。1876年サロン落選。 『画家(マルスラン・デブータンの肖像)』1875年。油彩、キャンバス、195.5 × 131.5 cm。サンパウロ美術館。1876年サロン落選。 マラルメ訳『大鴉』のための挿絵、1875年。リトグラフ。 『ステファヌ・マラルメの肖像』1876年。油彩、キャンバス、27.2 × 35.7 cm。オルセー美術館。
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