マウンテンメドーズの虐殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 09:14 UTC 版)
「ブリガム・ヤング」の記事における「マウンテンメドーズの虐殺」の解説
議論の多い問題として、マウンテンメドーズの虐殺にヤングがどの程度関わったかということがある。この事件は1857年にユタ準州ワシントン郡で起こった。レナード・J・アーリントンは、ヤングが同じ日のその事務室で伝言を受け取ったと報告している。ヤングがパロワンとシーダー市でモルモン教徒が目論んでいることを知ったとき、ファンチャー隊は妨害されずに領土内を通過させるという手紙を送り返した。ヤングの手紙は2日遅れた1857年9月13日に着いたと考えられている。ヤングは知事として連邦政府に対し、ユタ準州内を通過する移民を守ると約束した。しかし、地元先住民族の指導者に移民の荷車隊から牛を盗む許可を出したとも言われている。モルモン教徒とその先住民同盟者によって、120名以上の男性、女性および子供が殺された。地元のモルモン教徒が主要な実行犯だったことは明らかである。アメリカ合衆国陸軍の士官、ジェイムズ・ヘンリー・カールトンが虐殺の調査に派遣され、モルモン教徒が犯人だと確信した。子供達だけが生き残り、荷車隊(ファンチャー隊と呼ばれた)の虐殺されたメンバーは埋葬されずに放置され、生き残った子供達は地元のモルモン教徒の家庭で世話された。約40人の遺骸が発見されて埋葬され、カールトンは地元の木で作った大きな十字架を作らせ、その横木には「復讐するは我にあり、と神は言った。私が償おう」と彫らせ、その地には岩のケルンを作らせた。その上に石灰岩の板を置き、「ここで、1857年9月に120人の男性、女性および子供達が虐殺された。彼等はアーカンソー州から来ていた」と彫らせた。この記念碑はマウンテンメドーズを抜けてスパニッシュ・トレイルを通る旅人への警告として2年間立っていた。或る者の話では、ヤングが側近を連れてマウンテンメドーズに現れ、ケルンと十字架を破壊させたということである。このとき「復讐するは我にあり、私は少しだけ関わった」と叫んだ。しかし、別の者はケルンや十字架が朽ち果てたので、1864年にアメリカ軍によって立て直されたと言っている。
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