ボイエル砦の攻略
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「ボン攻囲戦 (1689年)」の記事における「ボイエル砦の攻略」の解説
ブランデンブルク軍は1689年3月、ヴェーゼル(英語版)でライン川を渡った。他の軍はライン川右岸に残り、カイザーヴェルト(英語版)を包囲することとされた。主力軍はイゥアディンゲン(英語版)、メーア修道院(ドイツ語版)とノイスの戦いでフランス軍を押し戻すことができた。ケルペン(英語版)、ヒュルヒラート(ドイツ語版)とデューレン(英語版)は解放された。1689年4月14日にはブランデンブルク軍のフォン・ハイデン大佐が、まだ完成していないボイエル砦を奇襲して奪うべく、歩兵1,000名と胸甲騎兵200名を率いてケルン軍の駐屯地へ向かった。その砦を爆破し、使用不能にするつもりだったのである。攻撃は4月15日から16日にかけての夜に敢行されたが、フランス側の小規模な部隊は「ティオンジュ」連隊の擲弾兵を載せた大型船2隻がボイエルに接岸し、戦闘に介入するまで持ちこたえることに成功した。夜明けにボンからさらなる分遣隊がリアクション・フェリー(英語版)で運ばれて来ると、戦いはフランス側の勝利に終わる。フォン・ハイデン大佐を含む多数のブランデンブルク兵は、この戦闘で命を落とした。 それでもライン川右岸のフランス軍部隊は無勢であり、撃退された。同軍が占領していたラインスベルク(英語版)要塞は5月16日に降伏し、同じく占領されていたカイザーヴェルトも長い抗戦の末、6月27日に降る。 6月29日、ハンス・アルブレヒト・フォン・バーフース中将がボイエル砦を最終的に占領し、そこからボンに砲撃を加えるべくブランデンブルク、ミュンスター及びネーデルラントの3個連隊を率いてカイザーヴェルトを発った。そしてモンドルフでズィーク川を渡り、ボイエル砦の前面に三つの砲台を築くと7月9日から砲撃を開始した。7月10日の夜にはフランス軍から「イタリア風の家」と呼ばれる哨所を奪うと、11日にはミュンスターの砲兵大佐、ランベルト・コルファイが弾薬庫に臼砲の砲弾を直撃させることに成功した。その爆発が巻き起こしたフランス側の混乱に乗じ、連合軍は砦に突撃をかけて占領する。
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