ホワイトソックスのコーチ時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 08:15 UTC 版)
「ウォルト・リニアック」の記事における「ホワイトソックスのコーチ時代」の解説
ボストンで12年間、その内正式な打撃コーチとして4年間働いた後、リニアックは1989年に最も高給のコーチの1人としてシカゴ・ホワイトソックスに移籍した。 恩師であるラウは、1984年に50歳で結腸直腸癌で亡くなる前年までホワイトソックスのバッティングコーチを務めていた。 リニアックは、シカゴ在職中に欠番となっていたラウの背番号「6」を敬意を表して着用した。これ以降背番号「6」を着けた者は1人もおらず、事実上の永久欠番扱いとなっている。 1989年、リニアックはA Hitting Clinic:The Walt Hriniak Wayを執筆した。これは、彼のバッティング理論の概要を示したものである。先述のボッグス、エバンス、ゲドマンも執筆に協力している。 リニアックは、1995年までの7年間、ホワイトソックスの打者を指導した。この頃には自身の打撃理論は「ラウ=リニアック・アプローチ」と通称される様になるほど有名なものとなっていたが、内容は基本的にラウが作成した「ラウ・システム」と同一のものである。 詳細は「チャーリー・ラウ #ラウ・システム」を参照 この時の教え子には1990年代を代表するスラッガーであるフランク・トーマスがおり、リニアックの理論の最も忠実な支持者の1人だった。トーマスは「リニアックは、集中力を維持する方法、前向きな姿勢を維持する方法、そして10打数のうち3安打を獲得する方法があると自分達にに信じさせた。我々はそのプログラムを守り、そのお陰で私は成績を残せた。」とコメントしている。 また、当時セントルイス・カージナルスに所属してサミー・ソーサと最多本塁打争いをしていたマーク・マグワイアがラウ=リニアック・アプローチを実践していることをトーマスに明かしている。 また、NBAの名選手だったマイケル・ジョーダンが1994年にホワイトソックスとマイナーリーグ契約を結んだ時、リニアックは彼の打撃技術指導の為にマイナーリーグのコーチに配置転換させられた。しかし、ジョーダンは猛練習を重ねたものの打撃技術は拙く、ダブルAバーミングハム・バロンズでの打率はわずか.202だった。 ホワイトソックス退団後、リニアックはマサチューセッツ州に戻って高校で臨時コーチを務める傍ら、バッティング教室を開き、プライベートバッティングインストラクターとなった。
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