ペリー (DD-11)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/29 00:45 UTC 版)
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艦歴 | |
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発注 | |
起工 | 1899年4月19日 |
進水 | 1900年10月27日 |
就役 | 1902年9月4日 |
退役 | 1919年7月2日 |
その後 | 1920年1月5日にスクラップとして売却 |
除籍 | 1919年9月15日 |
性能諸元 | |
排水量 | 480トン |
全長 | 250 ft 6 in (76.35 m) |
全幅 | 23 ft 8 in (7.21 m) |
吃水 | 7 ft 3 in (2.21 m) |
機関 | |
最大速 | 29ノット (54 km/h) |
乗員 | 士官、兵員73名 |
兵装 | 3インチ砲2門、 6ポンド砲5門、 18インチ魚雷発射管2門 |
ペリー (USS Perry, DD-11) は、アメリカ海軍の駆逐艦。ベインブリッジ級駆逐艦の11番艦。艦名は米英戦争におけるエリー湖の戦いで勝利を得たオリバー・ハザード・ペリー代将に因む。その名を持つ艦としては2隻目。
艦歴
ペリーは1899年4月19日にカリフォルニア州サンフランシスコのユニオン鉄工所で起工する。1900年10月27日にモード・オコーナーによって進水し、1902年9月4日に艦長セオドア・C・フェントン大尉の指揮下就役した。
ペリーは太平洋水雷小艦隊に配属され、メア・アイランドを拠点として活動した。作戦活動においては北はアラスカから南はメキシコ沿岸まで巡航し、1908年の秋に艦隊と合流、ハワイ海域で艦隊演習に従事した。
ペリーは1906年4月18日のサンフランシスコ地震で発生した火災の消火活動に参加した。4月18日の夜明け前に、ペリーの乗員は激しい揺れによって起こされた。サンフランシスコでは火災が発生し、ペリーの乗員は4日間、不眠不休で西部地区の消火活動、倉庫や被災家屋の略奪者からのパトロール、負傷者に対する医療援助を行った。
アメリカ合衆国が第一次世界大戦に参戦すると、ペリーは1917年7月28日からカリフォルニア沖合を巡航し、その後パナマ運河地帯へ向かい、運河の入り口を警戒した。1918年5月30日、ペリーはフロリダ・キーズの警戒任務のためキーウェストへ向かう。停戦協定後、ペリーは1919年1月29日にデラウェア湾へ向かい、その後フィラデルフィア海軍工廠で7月2日に退役するまで留まった。ペリーは1919年9月15日に除籍され、1920年1月5日にスクラップとして売却された。
外部リンク
「ペリー (DD-11)」の例文・使い方・用例・文例
- カッペリーニは時々、天使の髪の毛のようなパスタと呼ばれる。
- ペリーは彼から貴重な情報を入手した。
- ペリーは独り言を言う癖がついた。
- ペリーは浦賀に1853年に来航した。
- ペリーはドレークから情報をもらうことにした。
- ペリーはエメット理論がニュートン物理学とは無関係に構築されたと考えているが、それは誤っている。
- あの男は弁護士のペリー・メースンだ。
- 1853年、ペリーは、日本にアメリカへの門戸を開くように要求した。
- ペリー提督.
- ペリーは日本人のいわゆる「黒船」の大砲のお陰で紳士的に交渉することができた.
- ペリー提督の率いる「黒船」は日本国民をその長い太平の眠りから醒ましてくれた.
- ペリーは日本の門戸を西欧に解放した.
- ペリー・メイソンは行方不明の相続人の問題を解決した
- 探偵小説の作家で、ペリー・メーソンを主人公にしている(1889年−1970年)
- 「太平洋序曲」は,1853年にマシュー・ペリー提督と彼の4隻の黒船が浦(うら)賀(が)へやって来た時に,日本が経験した混乱についてのものだ。
- マシュー・ペリー代将の来航以来,徳川幕府は開国するよう圧力を受けていた。
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