ペイ・パー・ビューの始まり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/09 18:07 UTC 版)
「アメリカ合衆国のボクシング中継」の記事における「ペイ・パー・ビューの始まり」の解説
1970年代に米国のボクシングはラテンアメリカの勢いに圧されていたが、1975年10月1日のモハメド・アリ対ジョー・フレージャー戦では初のPPV(ペイ・パー・ビュー)中継が行われた。1980年代の米国ではシュガー・レイ・レナードやトーマス・ハーンズ、マービン・ハグラーらに、ラテンアメリカ全盛期の中心的な役割を果たしたロベルト・デュランが加わって熱戦を展開。彼らの試合はPPVで放送され、その報酬は高騰し、プロモーターは桁違いの収入を得るようになっていた。 ボブ・アラムとドン・キングは、1980年6月にモントリオールでのレナード対デュラン戦を共催。この試合ではダン・デュバがCCTV契約を担当した。その後、1981年9月に、当時ダン・デュバが主宰していたメインイベンツ社がプロモートしたレナード対ハーンズ戦では、アラムがCCTVと国外の放映権契約に携わった。レナードは800万ドル、ハーンズは500万ドルの報酬を保証されており、この他に放映権料の歩合などを受け取ることになっていた。フランク・バルセロナは約300の会場でCCTV150万席を扱うサーキット・プロモーションズを設立。シーザーズ・パレスはテニスコートに2万5000席の屋外競技場を仮設した。PPVを担当したダン・デュバはシカゴとロサンゼルスを中心としてアラスカ州アンカレッジからミシシッピ州ナチェズまでの36都市に所在する13社とPPV中継を契約。アリ対フレージャー戦以来、初の本格的なPPV中継が行われた。1996年にダン・デュバが病死した後は妻のキャシーがメインイベンツ社のCEO、プロモーターとなった。
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