ベンガル征服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 15:25 UTC 版)
「ムハンマド・バフティヤール・ハルジー」の記事における「ベンガル征服」の解説
1200年にビハールを征服したとき、ハルジーの人生の転機が訪れた。彼の活発な軍事行動が功を奏して、デリーの宮廷での影響力を獲得したのである。同年、彼はベンガルへ軍を進めた。ナヴァドヴィーパの街を攻めたとき、彼は先頭に立って突撃した。あまりの速さで、彼についていけた騎兵はわずか18騎だった。1203年、ハルジーはセーナ朝の君主ラクシュマナ・セーナから首都ナヴァドヴィーパを奪取することに成功した。最終的に、彼は主要都市ガウルを征服し、ベンガルの大部分に攻め込んだ。 バフティヤール・ハルジーの侵攻により、ナーランダ僧院やオーダンティプラ、ヴィクラマシーラの仏教建築群は甚大な被害を被った。ミンハージュ・サラージュ・ジューズジャーニーが著した『ナースィル史話』によれば、ハルジーは「ビハール」という町の仏教寺院を破壊したという。これはおそらくヴィハーラ(精舎)を指している。アメリカの歴史学者Hartmut Scharfeは、チベットの文献から、これがヴィクラマシーラの寺院の一つを指しているとしている。一方で歴史家のAndré Winkは、オーダンティプラの寺院であると考えている。17世紀前半のチベット仏教のラマであるターラナータは、侵略者がオーダンティプラで多くの仏教僧を虐殺し、ヴィクラマシーラを破壊したと記録している。13世紀にこの地域を訪れたチベット人の巡礼僧Dharmasvaminによれば、ヴィクラマシーラはトゥルシュカ(トルコ人)の侵略者によって完全に破壊されきって、ナーランダはトゥルシュカの司令官の住居になっていた。ナーランダには80ほどの小さな精舎が残っているが、そのほとんどはトゥルシュカによる被害を受け、放棄されている。わずか2つだけが、まともな状態で残っている状況である。
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