プロイセンからの皇后候補
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「フランツ・ヨーゼフ1世」の記事における「プロイセンからの皇后候補」の解説
若き皇帝のために、宮中では皇后選びの作業が進められていた。母ゾフィー大公妃がまず候補に挙げたのは、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の姪にあたるマリア・アンナ王女であった。1852年冬、かつてプロイセン王がウィーンを訪れたことへの答礼としてフランツ・ヨーゼフ1世はベルリンを訪れており、その際に美しいと評判の彼女に会って心を奪われていたことによる。また、好戦的な姿勢を隠さなかったフランス皇帝ナポレオン3世への対処のために、当時ぎすぎすしていたオーストリアとプロイセンの関係を改善したいという意図もあった。 しかし、マリア・アンナ王女はすでにヘッセン選帝侯国のフリードリヒ・ヴィルヘルム公子と非公式に婚約していた。あくまで内密にされていたのでゾフィー大公妃にはその情報が伝わっていなかったのである。プロイセン王妃はゾフィー大公妃の姉エリーザベト・ルドヴィカであった。そこでゾフィー大公妃は姉を通じてプロイセン国王を翻意させようとしたが、最終的にはオットー・フォン・ビスマルクによって拒絶された。 プロテスタントのホーエンツォレルン家とカトリックのハプスブルク家では宗旨が違うというのが破談の理由だったが、改宗の問題はその気になりさえすれば簡単に解決できることであり、実際に時のプロイセン王妃エリーザベト・ルドヴィカの例もあった。結局のところ、プロイセンは自国主導のドイツ統一を目論んでおり、その足枷となるオーストリア帝室との婚姻をこの時期に結ぶことはありえなかったのである。
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プロイセンからの皇后候補
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 03:46 UTC 版)
「フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)」の記事における「プロイセンからの皇后候補」の解説
若き皇帝のために、宮中では皇后選びの作業が進められていた。母ゾフィー大公妃がまず候補に挙げたのは、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の姪にあたるマリア・アンナ王女であった。1852年冬、かつてプロイセン王がウィーンを訪れたことへの答礼としてフランツ・ヨーゼフ1世はベルリンを訪れており、その際に美しいと評判の彼女に会って心を奪われていたことによる。また、好戦的な姿勢を隠さなかったフランス皇帝ナポレオン3世への対処のために、当時ぎすぎすしていたオーストリアとプロイセンの関係を改善したいという意図もあった。 しかし、マリア・アンナ王女はすでにヘッセン選帝侯国のフリードリヒ・ヴィルヘルム公子と非公式に婚約していた。あくまで内密にされていたのでゾフィー大公妃にはその情報が伝わっていなかったのである。プロイセン王妃はゾフィー大公妃の姉エリーザベト・ルドヴィカであった。そこでゾフィー大公妃は姉を通じてプロイセン国王を翻意させようとしたが、最終的にはオットー・フォン・ビスマルクによって拒絶された。 プロテスタントのホーエンツォレルン家とカトリックのハプスブルク家では宗旨が違うというのが破談の理由だったが、改宗の問題はその気になりさえすれば簡単に解決できることであり、実際に時のプロイセン王妃エリーザベト・ルドヴィカの例もあった。結局のところ、プロイセンは自国主導のドイツ統一を目論んでおり、その足枷となるオーストリア帝室との婚姻をこの時期に結ぶことはありえなかったのである。
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