プロイセンからジュネーヴへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 19:00 UTC 版)
「ヴォルテール」の記事における「プロイセンからジュネーヴへ」の解説
1750年には、プロイセンのフリードリヒ大王の招きに応じてプロイセンを訪問した。このときパリを出発したのち、死の直前の1778年に戻ってくるまで、ヴォルテールは生まれ育ったパリに足を踏み入れることはなかった。プロイセンに到着すると、ヴォルテールはフリードリヒ大王に歓迎され、ポツダムにおいて彼の侍従となった。しかしフリードリヒとヴォルテールは衝突を繰り返し、1753年には辞職した。帰国後、折り合いの悪かったルイ15世にパリへの入城を禁じられ、コルマールに1年ほど滞在したのち、招きに応じて1754年の末にジュネーヴへと移住した。 ジュネーヴに落ち着き、邸宅を購入すると、ヴォルテールは活発な活動を再開した。1756年には「百科全書」にも「歴史」項などを寄稿した(直後に「百科全書」は出版許可が取り消される)。それまでの彼の活動を寓話的に総括し、合わせてゴットフリート・ライプニッツの「弁神論」に代表される調和的で楽観的な世界観を批判したのがコント『カンディード』(1759年)といえる。しかしこうした活動を通じて、ジュネーヴ市政府との関係が悪化していった。この関係悪化の理由の一つとして、カルヴァン派を国教とするジュネーヴ市が演劇を市内で上演することを禁止していたことがあげられる。ただしフランス政府との関係も相変わらず険悪だったために、どちらの情勢変化にも対応できる住居が新しく必要となってきた。
※この「プロイセンからジュネーヴへ」の解説は、「ヴォルテール」の解説の一部です。
「プロイセンからジュネーヴへ」を含む「ヴォルテール」の記事については、「ヴォルテール」の概要を参照ください。
- プロイセンからジュネーヴへのページへのリンク