プラトン社と中山文化研究所
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「中山太一」の記事における「プラトン社と中山文化研究所」の解説
1922年(大正11年)、中山太陽堂の顧問に自由劇場、松竹蒲田撮影所前所長の小山内薫を迎え、出版社「プラトン社」を設立した。弟・豊三を社長に据え、このころ図案家として中山太陽堂に入社していた山六郎を出向させ、小山内を編集長に、同年5月、雑誌『女性』、1923年(大正14年)12月に『苦楽』の2誌を創刊した。同社は直木三十五、川口松太郎といった文人、山のほかに山名文夫、岩田専太郎、竹中英太郎といったイラストレーター、グラフィックデザイナーを育て、阪神間モダニズムの勃興に多大な影響を与えた。1928年(昭和3年)に6年間をもって廃業した。 1923年(大正12年)7月、41歳のとき、創業二十周年記念事業として「中山文化研究所」を企画、翌1924年(大正13年)1月、大阪市北区真砂町(現・同区西天満)の堂島ビルヂング(堂ビル)、東京市麹町区(現東京都千代田区)の丸ノ内ビルヂング(丸ビル)に設置した。 1924年(大正13年)、出身の滝部小学校に、ルネサンス様式の洋館の新校舎を弟・豊三と連名で寄贈する。同校舎は、現在、下関市豊北歴史民俗資料館となっている。
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