ブクサールの戦いとディーワーニーの授与
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「シャー・アーラム2世」の記事における「ブクサールの戦いとディーワーニーの授与」の解説
1761年以降、シャー・アーラム2世はアワド太守シュジャー・ウッダウラの保護を受け、同年から1762年 にかけてデリー進出を図ったが失敗した。そうしたなか、1763年末に前ベンガル太守ミール・カーシムがイギリスとの争いに敗れてアワドに逃げてきた。 こうして、皇帝シャー・アーラム2世、アワド太守シュジャー・ウッダウラ、前ベンガル太守ミール・カーシムの間に三者同盟が結成され、三者はまずミール・カーシムの為にベンガルを取り戻すことを決定した。 そして、1764年10月23日、三者連合軍はビハールとアワドの州境にあるブクサール(バクサルとも)で、イギリス東インド会社の軍と会戦した(ブクサールの戦い)。だが、皇帝軍は内通者があり兵が動かず、ミール・カーシム軍は給料未払いで兵士に戦意がなかったため、実際はアワド太守の軍とイギリス東インド会社軍との戦いであった。戦いは一日で終結し、結果はイギリスの圧勝で終わり、連合軍は大敗を喫した。 その後、イギリス東インド会社は戦後処理として、アワド太守シュジャー・ウッダウラにミール・カーシムを捕えさせ投獄し、翌1765年8月16日にシャー・アーラム2世とアラーハーバード条約を締結した。 イギリスはシャー・アーラム2世からベンガル、ビハール、オリッサ3州のディーワーニー(収租権)を獲得し、その代わり260万ルピーの債弊(年金)を皇帝に贈ることとなった。ディーワーニーとは、皇帝よりディーワーンと呼ばれる各州の財務長官に与えられる職務・権限を意味し、その権限は主に税の徴税・支出を含むものであった(イギリスは1858年ムガル帝国が滅亡するまでこの権限を放棄しなかった)。 イギリスは皇帝の代理人として税の徴収にあたる「ディーワーン」の役職に任命されただけだったが、彼らは事実上の領有権を主張し、帝国の与えたディーワーニーよってそれらの土地の支配が正当化されたと判断した。これにより、イギリスはベンガル、ビハール、オリッサを領有して事実上の太守となり、皇帝や地方の太守もこれら地方の権利を失い、これ以降インドの植民地化をさらに押し進めるようになった。 また、イギリスはアワド太守にアラーハーバードとコラー年額280万ルピーの価値のある土地を会社に割譲させ、それを皇帝に与えた。
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