ブクサールの戦いと敗北
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/04/01 03:24 UTC 版)
「ミール・カーシム」の記事における「ブクサールの戦いと敗北」の解説
ミール・カーシムはアワドに落ち延びたのち、アワド太守シュジャー・ウッダウラの保護をうけ、元の状態に戻れるよう援助を約束された。同様にシュジャー・ウッダウラに保護されていたムガル帝国の皇帝シャー・アーラム2世とも合流した。 こうして、前ベンガル太守ミール・カーシム、アワド太守シュジャー・ウッダウラ、ムガル皇帝シャー・アーラム2世の間に三者同盟が結成され、三者はまずミール・カーシムの為にベンガルを取り戻すことを決定した。 1764年10月23日、三者連合軍40,000人はビハールとアワドの州境にあるブクサール(バクサルとも)でイギリス軍7,000人と会戦した(ブクサールの戦い)。しかし、ミール・カーシム軍は給料未払いで兵士に戦意がなく、皇帝軍は内通者があり兵が動かなかったため、実際はアワド太守の軍とイギリス軍との戦いであり、結果はイギリスの圧勝であった。 その後、イギリスは戦後処理として、アワド太守シュジャー・ウッダウラにミール・カーシムを捕えさせ投獄し、1765年8月16日にアラーハーバード条約が締結された。イギリスはこのアラーハーバード条約により、ムガル皇帝からベンガル、ビハール、オリッサ3州のディーワーニーを獲得した。
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