フロンターレへの移行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 03:25 UTC 版)
「富士通サッカー部」の記事における「フロンターレへの移行」の解説
一方、運営面では大きな変革を迎えていた。既述通り、1996年3月の旧JFL開幕時に富士通サッカー部は「川崎」の名称を加え、従来は大和市の大和市営大和スポーツセンター競技場や厚木市にある厚木市荻野運動公園競技場での開催が多かった旧JFLの主催試合を市内の等々力陸上競技場で増やせるようになったが、その将来像はまだ明確ではなく、栃木県小山市などでは富士通の誘致を念頭に置いた「Jリーグクラブ招致活動」も行われていた。しかし、富士通は自らの手でサッカー部をプロ化し、川崎市をホームタウンとしてJリーグ参加を目指す事を決定し、10月17日に富士通本社から記者発表を行った。同月には同じ川崎市が本拠地だったJリーグクラブのヴェルディ川崎と等々力で公開練習試合を行って川崎市民への告知を行い、11月21日には「富士通川崎スポーツ・マネジメント株式会社」を設立してチームを法人化し、更にチーム名の公募も始めて、翌シーズンへの準備を進めた。城福監督やコーチ、それに選手の多くはアマチュアだったため、クラブのプロ化による大量の退団・社業専念が実施され、数人のプロ契約選手もムタイル以外は全員が退団した。 その変革の中で臨んだ天皇杯では、11月17日の3回戦でジェフユナイテッド市原を下し、初めて公式戦でJリーグクラブを倒してベスト16に進出した。4回戦は旧JFL閉幕後の12月23日に等々力で行われ、ガンバ大阪に1-3で敗れた富士通川崎サッカー部は歴史に一区切りを付けた。 なお、「富士通川崎サッカー部」なるクラブは、その後フロンターレに参加せず社業に専念する選手により別に作られ、現在神奈川県社会人サッカーリーグ3部リーグ(2013年) に所属している。
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