フラークナーン旅団の攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/16 00:34 UTC 版)
「スカリッツの戦い」の記事における「フラークナーン旅団の攻撃」の解説
フラークナーン少将はその旅団をもってアウパ川前面の上り坂を保持し、オーストリア軍の左翼を構成していた。彼はレオポルト大公から命令を受けておらず、独自の攻撃計画が計画されたものと推測した。その理由はベネデック大将およびラミンク中将の軍団の存在と、友軍中央に向けて激化する砲撃である。また彼は、プロイセン軍が間もなくドゥブノの森を抜け、ツリク村(Ort Zlic)まで前進し、自身の部隊を迂回して側面攻撃に移る事態を想定せねばならなかった。 そのため12時30分頃、フラークナーン少将は指揮下の旅団にドゥブノの森への攻撃を命令する。この攻撃は楽隊と、同じく坂の上の陣地を放棄した砲兵部隊を伴った。その後の1時間に、6000名の兵のうち3000名が死傷するか捕虜になる。第一波は早くも最初の斉射で倒され、この時に参加した士官のほとんどは捕えられた。ポーランドおよびウクライナ出身の兵から構成される、第15連隊を伴う第二波は一種の恍惚状態の下で前進し、第一波を追い越しさえした。この二波の攻撃に対し、プロイセン軍は400メートルの距離から速射をもって応じる。それでも第15連隊の一部は森の外縁に地歩を占めることができたが、それ以上の前進は不可能であった。戦死者には、フラークナーン少将自身の他に複数の連隊長が含まれている。この戦いで、プロイセン軍は6門の大砲を鹵獲した。 第一波に参加したオーストリア軍の生存者は戦場から逃亡して、右翼のシュルツ旅団に制止されるまで駆け続けた。シュルツ少将はこのため、兵に銃剣を装着させ、それを逃亡する友軍に向けねばならなかったのである。
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