フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ時代(1966年 - 1977年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 05:27 UTC 版)
「フランク・ウィリアムズ」の記事における「フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ時代(1966年 - 1977年)」の解説
フランク・ウィリアムズは、イングランドのタイン・アンド・ウィア州にてイギリス空軍の爆撃機パイロットであった父と、特殊学級教諭の母のもとで生まれた。彼は幼少期の大部分をスコットランドの寄宿学校で過ごした。1950年代の終わりごろ、ある友人が彼にジャガーXK150Sに乗車する機会を与え、ウィリアムズはたちまちそのとりこになった。 ドライバーおよびメカニックとして短いキャリアを経た後(教会前でストリーキングをしたのはこの頃)、食品雑貨の行商によって蓄えた資金によって、1966年に「フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ」を設立した。F2およびF3において数年間にわたり、ピアス・カレッジ、リチャード・バートン、生沢徹、トニー・トリマーを出走させた。また、ウィリアムズは中古のブラバムF1シャシーを購入してF1に数戦回出走し、カレッジが2位に2回入賞した。 1970年、ウィリアムズはアレクサンダー・デ・トマソとの間に短期間のパートナーシップを結んだが、オランダグランプリでカレッジが死亡すると、その年の終わりにはデ・トマソとの関係は終わりを告げた。1971年には、マーチから購入したシャシーでアンリ・ペスカロロを出走させた。1972年にはウィリアムズチームとして初めてのF1シャシーであるポリトイ・FX3がレン・ベイリーの手により設計されたが、 ブランズ・ハッチで行われたイギリスGPでペスカロロはクラッシュ、リタイアしてしまう。そしてこれ以降は再びマーチのシャシーを使うことになる。 資金が不足したことにより、ウィリアムズはマールボロおよびイソ(イタリアの自動車会社)に対してスポンサー契約を求めた。彼らは申し出を承諾したものの、契約金が予定通りに支払われなかったため、1976年にウィリアムズは石油王ウォルター・ウルフを共同出資者に受け入れた。チームは活動を続けたものの、それはもはやウィリアムズのものではなく、1977年に長年の従業員の1人であったパトリック・ヘッドとともにチームを去った。
※この「フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ時代(1966年 - 1977年)」の解説は、「フランク・ウィリアムズ」の解説の一部です。
「フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ時代(1966年 - 1977年)」を含む「フランク・ウィリアムズ」の記事については、「フランク・ウィリアムズ」の概要を参照ください。
- フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ時代のページへのリンク