フォード・GT40コンストラクター時代 (1967年~1969年)
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「JWオートモーティヴ・エンジニアリング」の記事における「フォード・GT40コンストラクター時代 (1967年~1969年)」の解説
FAV解散から時をおかず看板を掛けかえる形で発足したJWAは、フォードからFAVが行っていた事業を受託し、間断なくGT40の製造販売を引き継いだ。 FAV最終年の1966年はフォード本社の方針で、レース活動はGT40を運用する個人チームを支援するのみであったが、独立して自由裁量を得たJWAはガルフ石油の資金提供を受け、GT40を基台にしたプロトタイプ・スポーツカー (以下、プロトタイプ) のミラージュ・M1を開発し、独自のレース活動を再開した。この年はフランコルシャン1000キロメートルに優勝するなどにより、ミラージュはプロトタイプによる製造者国際トロフィーで年間4位を得た。また引き続き個人チームを支援し、2年連続で公認生産車によるスポーツカー国際選手権をフォードが獲得することに貢献した。 公認生産車とプロトタイプに分割されていたタイトルは1968年から一本化されメイクス国際選手権となった。公認スポーツカーとプロトタイプはそれぞれ第6から第12クラスと第6から第11クラスに参加クラスが制限され、大排気量のプロトタイプは参加資格を失った。JWAは引き続きプロトタイプでの参加を目論み、フォード資本下でコスワース・エンジニアリング (Cosworth Engineering Ltd.) が開発したDFVエンジン (V型8気筒) の供給を望んだが叶わず、GT40の変型を公認取得して参加することとなった。この年は8戦参加してル・マン24時間を含む5勝を挙げ、フォードに年間優勝をもたらした。 1969年はGT40と前年から開発を続けていたプロトタイプのガルフミラージュ・M2 (クーペ) とM3 (ロードスター) を使い分けての参加となった。当初ガルフミラージュはBRM・P101エンジン (V型12気筒) であったが、期間後半にDFVの供給を受けられこれに替えた。この年も8戦に参加し、ル・マン24時間を含む2勝をGT40で挙げたことで、フォードはル・マン24時間の4連覇を達成した。またフォードからの受託事業も終了となった。 ミラージュ・M1 フォード・GT40 ガルフミラージュ・M2
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