ファイナル・ガールとジェンダーの攪乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 17:56 UTC 版)
「ファイナル・ガール」の記事における「ファイナル・ガールとジェンダーの攪乱」の解説
キャロル・クローバーが「ファイナル・ガール」に注目した理由の一つは、フェミニスト映画理論への関心である。 それまでのフェミニスト映画理論においては、ローラ・マルヴィに代表されるように、映画というメディアが担っているのは「男から女へ注がれるまなざし」だと考えられてきた。男の観客はスクリーンに登場する男に感情移入し、かれらを通じて、映画の中の女たちを見つめるのである。 そうした回路によって、映画という装置の全体が、男が女を執拗に眺めまわし服従させるための構造を持っている。その構造に沿って、映画に登場する男性は自立し決断力に富んでいるが、女性は最終的には男の判断を受け入れるものとして描かれる。1980年代前半までのフェミニスト映画理論においては、そのように主張されてきた。 しかしスラッシャー映画においては、観客の大半が若い男性であるにもかかわらず、前半で壮絶な暴力をふるう殺戮者たちは理想的な男性性を欠いており(性的不能が強く暗示されるケースもある)、後半で殺戮者を打ち倒し生還するファイナル・ガールは自立した若い女性である。 観客は前半では殺戮者の視点で若い女の惨殺に恐怖するというサディスティックな快楽を楽しむが、後半では女性による逆襲に喝采を送る。そこには、旧来のフェミニスト映画理論では説明できないジェンダー概念の攪乱がある。 キャロル・クローバーがスラッシャー映画とファイナル・ガールに注目した最大の理由はここにあった。
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