ビリー・ジーン・キングとエルトン・ジョン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/14 07:14 UTC 版)
「フィラデルフィア・フリーダム」の記事における「ビリー・ジーン・キングとエルトン・ジョン」の解説
1973年、エルトン・ジョンとビリー・ジーン・キングはとあるパーティーで出会った。キングはこう回顧している。「私は会場で気を失いかけた。エルトンのファンだったから。それまで彼には会ったことがなくて」 その年はキングにとって大きな転換の年だった。男女の賞金格差に異を唱えたキングと元選手のグラディス・ヘルドマン(Gladys Heldman)らは、男子選手たちから離脱した「女性によるテニスツアー」を提唱し、1973年6月に「女子テニス協会」を発足させた。また、同年9月20日には当時55歳になっていたボビー・リッグスと「Battle of the Sexes」と銘打たれた男女対抗試合を行った。リッグスは「私は男女同権運動を代表するビリー・ジーン・キングと試合をしたい」と声高に叫び、テキサス州ヒューストンの試合会場には3万人を超える観客が集まった。テレビ中継でも大勢の人々が見守った。熱心なテニスファンで、コートのサイドラインから応援することの多かったジョンであるが、この日はロサンゼルスのホテルで声を嗄らして声援を送ったという。キングは3セットのストレート勝ちで勝利を収め、この試合をきっかけに、興行としての「女子テニス」が発展し始める。 1974年にキングはテニス・チーム「Philadelphia Freedoms」と契約。ユニフォームを着てベンチに入るほどのチームのファンだったジョンは、キングの幸運を願い、彼女とチームの讃歌を作ることを決心する。ただし依頼されて書かれたパーニー・トーピンの歌詞はテニスともキングともほとんど関係はなかった。
※この「ビリー・ジーン・キングとエルトン・ジョン」の解説は、「フィラデルフィア・フリーダム」の解説の一部です。
「ビリー・ジーン・キングとエルトン・ジョン」を含む「フィラデルフィア・フリーダム」の記事については、「フィラデルフィア・フリーダム」の概要を参照ください。
- ビリー・ジーン・キングとエルトン・ジョンのページへのリンク