ヒース内閣
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「ウィリアム・ホワイトロー (初代ホワイトロー子爵)」の記事における「ヒース内閣」の解説
1970年にエドワード・ヒース保守党政権が発足すると庶民院院内総務・枢密院議長に就任した。彼は全閣僚の中でも首相ヒースと最も親しい閣僚だった。 北アイルランドのカトリック住民による反英運動が高まる中の1972年3月、ヒースは北アイルランドのストーモント議会を廃止してイギリス政府による直接統治を開始した。北アイルランド大臣(英語版)のポストが新設され、ホワイトローがそれに就任した。6月にアイルランド共和軍(IRA)との一時停戦が実現すると、ホワイトローはジェリー・アダムズ(英語版)らIRA幹部と極秘の交渉を行ったが、IRAは英軍撤収の要求を譲らなかったため、合意には至らなかった。 ホワイトローは北アイルランド自治を回復するため、従来のウェストミンスター型多数派議会ではなく、プロテスタントとカトリックの権力分有による新たな議会の創設を模索し、1973年7月に改めて北アイルランド議会を設置。プロテスタントとカトリックの穏健諸政党から成るこの議会で選ばれた代表が総督の指導の下に自治を行うものとした。さらに1973年12月にイギリス政府とアイルランド政府と北アイルランド代表の間で締結されたサニングデール合意(英語版)に尽力した(しかしこの協定は「紛争解決を純粋な国内問題にせず、アイルランドを紛争解決のスキームに招き入れる」として統一派の強い反発を買って挫折した)。 同じ頃、ヒース政府と全国炭鉱労働組合(英語版)(NUM)の対立が深まり、1973年12月に雇用大臣(英語版)に転じた。しかしホワイトローには難局を打開させることはできず、炭鉱ストも阻止できなかった。ヒースは状況の打開を目指して1974年2月に総選挙に打って出るも敗北して政権を失った。
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