パンイスラム主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 16:32 UTC 版)
「アブデュルハミト2世」の記事における「パンイスラム主義」の解説
一方で、アブデュルハミト2世は汎イスラーム主義(英語版)的な宣伝にも努め、ジャマールッディーン・アフガーニーやミールザー・アーガー・ハーン・ケルマーニーをイスタンブールへ招聘し(後にアフガーニーを監禁・獄死に追いやる)、イスタンブールのペルシャ語日刊紙『アフタル』(ペルシア語: اختر - Akhtar)の報道をきっかけにタバコ・ボイコット運動を勃発させてガージャール朝をタバコ・ファトワーなどで非難した。1889年にエルトゥールル号を東洋へ派遣するなど、オスマン帝国外ではカリフとしての威信をある程度高めることに成功した。このようにアブデュルハミトは国際関係を有利にするためにイスラム主義を利用した。こうしたイスラム主義政策は露土戦争以降キリスト教徒住民の割合が高いバルカン半島を失い、また失われた領土からムスリム難民が流入したことによる国内のムスリムの割合が上昇したことが背景にあった。ムスリム臣民を帝国の中心的集団として重視し、かれらの同室性を高めて緊密に統合する手段としてイスラム教的な価値観が利用された。 ただしアフガーニーを死に至るまで軟禁したようにあくまでパンイスラム主義をその影響範囲をコントロールしていた。
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