パシュトゥーニスタン独立運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 01:01 UTC 版)
「アフガニスタン」の記事における「パシュトゥーニスタン独立運動」の解説
1947年にイギリスのインド統治が終了すると、バルチスタン地方は「もともとインドの一部ではない」ためインドやパキスタンには参加しなかった。イギリスやパキスタンもカラート藩王国(英語版)の独立を認めたうえで、パキスタンとは特別の関係を結ぶことを模索し、1952年にバルチスタン藩王国連合(英語版)として独立させた。 しかし、その後のパキスタンからの軍事的圧迫(バルチスタン紛争(英語版))に抗すことができず藩王は併合条約に調印し、パキスタンに軍事併合された。その後もしばらく内政自治は続いていたが権限は大幅に縮小され、1955年には藩王国自体が名目上も消滅させられ、バローチスターン州とされた。 パキスタンがバルチスタンのみならずアフガニスタンも併合しようとしたため、国王ザーヒル・シャーは逆にパキスタン領(連邦直轄部族地域、ワズィーリスターン)内のパシュトゥーン人を支援して「パシュトゥーニスタン(英語版)独立運動」を起こし牽制した。 ザーヒル・シャーは、1960年代には立憲君主制を導入して民主化路線を推進し、日本やイギリス、ソ連などからの資本の導入や輸入品の導入を推進した。
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