パガン島移住
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 21:39 UTC 版)
第一次世界大戦中、水谷自身も新たな動きを始めた。1915年9月、自らが代表者となって北マリアナ諸島のパガン島、アグリハン島の硫黄鉱開発願いと南洋諸島漁業許可願いを提出した。そして翌1916年3月には田中四郎左衛門が代表者となったパガン島、フララン島硫黄採掘願いにも名を連ねた。1915年9月の水谷の許可願いが認められたかどうかは不明であるが、1916年3月の田中の許可願いは認められている。 1916年11月6日、渡辺亨が代表を務める南開社は、水谷を責任者として技術者らをパガン島に移住させる旨の届出を行った。1916年のうちに水谷は南開社のパガン島主任として約30名の移住者を率いてパガン島に到着、移住したものと考えられる。 その後、水谷は1918年になってパガン島の官有地3町歩を借りて綿花栽培を始めたとの記録がある。南洋群島を占領して防衛と行政を担うことになった海軍の「臨時南洋群島防備隊」は、1916年1月に占領地の耕作地、森林、原野の貸与を始めていて、1918年5月には個人にも貸与することになり、希望者は出願するようにとの通告がなされた。水谷はその個人向けの官有地貸与に出願したものと考えられている。なお個人向けの官有地貸与を受けた後、南開社と水谷との関係がどうなったかについては不明である。 その後水谷は1919年、1920年、1921年とパガン島で3町歩を借りて綿花栽培を行っているとの記録が残っており、1921年9月の時点までは水谷はパガン島で生存していたものと考えられる。 1921年9月の記録が、確実な水谷に関する最後の記録である。水谷の死亡場所、日時については、横尾東作の子の愛作が、不遇の中、関東大震災の前に小笠原か静岡で病死したとの話を伝えているが、その根拠ははっきりとしない。
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