バークリー音楽院留学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 05:36 UTC 版)
当時の日本では音楽理論的な部分は未発達であった。徳山や金井英人(ベース)などから部分的には吸収していたものの、系統的な勉強をする環境はなかった。 1963年、ピアニスト穐吉敏子とチャーリー・マリアーノのグループに加入することとなった。穐吉はバークリー音楽院を卒業後、本場アメリカで演奏活動を行っていたプレーヤーであり、荒川はその演奏に新鮮な驚きを感じた。1965年、穐吉らが米国に帰国することを契機として、荒川も渡米しバークリー音楽院へ入学することとなった。佐藤允彦が1年遅れで同校へ入学した。同時期バークリーにはジョン・アバークロンビー、ジョー・ラバーベラ、パット・ラバーベラ、アーニー・ワッツ、アラン・ブロードベントらがいた。 1969年に帰国。この年から稲垣次郎のソウル・メディアで活動することとなった。同年、佐藤允彦、富樫雅彦とトリオを結成したが、1970年に富樫が刺される事件があり解散となった。 また、宮沢昭のアルバム録音に参加、1970年にはヘレン・メリルの『Helen Merrill Sings Beatles』に佐藤允彦、猪俣毅とともに参加した。同年、デューク・エリントン楽団の日本公演で一日だけ代役で演奏を行う機会を得た。 1970代に前田憲男、猪俣猛と組んだトリオ「WE3」は、前田が2017年に亡くなる少し前まで活動を継続していた。 ほかにもCM楽曲制作などで活躍。代表的なCMに尾崎紀世彦が歌うスバル『レオーネ』がある。 2020年、一般社団法人日本ジャズ音楽協会ジャズ大賞を受賞した。
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