バークレーからプリンストンへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 02:06 UTC 版)
「エルンスト・カントロヴィチ」の記事における「バークレーからプリンストンへ」の解説
1939年、カントロヴィチはカリフォルニア大学バークレー校の講師職を得た。数年後には常任教授の地位を得たが、赤狩りが吹き荒れる1950年に大学評議会が政治的破壊運動への参加を否定するよう全教職員に忠誠宣誓(英語版)を要求してきた際、カントロヴィチは抗議の意を示すため辞職した。彼は自身が学生時代から左派運動に身を投じたことがなく、むしろ反共産主義民兵組織に身を置いていたことを強く主張したうえで、それでもなおこの忠誠宣誓要求はあからさまな学問の自由と良心の自由の侵害であるとして反発したのであった。 この論争のさなか、著名な亡命ドイツ人の中世史家であるテオドール・モムゼン(同名の古代史家テオドール・モムゼンの孫)とエルヴィン・パノフスキーが、自分たちの所属する高名なプリンストン高等研究所の歴史学部門でカントロヴィチに教授職を与えるよう、所長ロバート・オッペンハイマーに掛け合った。この結果、カントロヴィチは1951年1月にプリンストンの教授職を得て移住し、以後ここで研究生活を送った。
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