ハーマン・W・ラング
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「デュケインのスパイ網」の記事における「ハーマン・W・ラング」の解説
ハーマン・W・ラング(Herman W. Lang)は1927年に渡米し、1930年に市民権を取得した。彼はアドルフ・ヒトラーと共に1923年のミュンヘン一揆に参加した人物の1人であった。また、セボルドが米国内で接触するように命じられていた4人の人物の1人でもあった。 彼は逮捕されるまで、カール・L・ノルデン社(Carl L. Norden Corp.)に勤務し、当時極秘とされていたノルデン爆撃照準器など国防上重要かつ機密性の高い資材の製造に携わっていた。1938年には渡独して国防軍情報部のリッター大佐と接触し、自らの記憶を元に機密性の高い資材に関する様々な図面を再現して報告した。1938年1月9日、リッターはこれを傘用の木箱に納め一般の荷物に擬装し、船便でブレーメンへと送った。 ノルデン爆撃照準器はアメリカ陸軍航空軍における最高機密の1つで、爆撃機乗員らは訓練中に命と引き換えにしてでもこの機密を守ることを宣誓させられるほどであった。後にドイツ空軍が開発したいくつかの爆撃照準器がこのノルデン爆撃照準器と類似していたのは、ラングによる情報提供が関係していたという。例えば1942年にドイツで開発されたLotfernrohr 3とBZG 2の2種は、照準器と自動操縦を連動させる複雑な機能こそ省かれていたが、おおむねノルデン爆撃照準器と同じ形状をしていた。さらに後になってカール・ツァイス社が開発したロトフェルンロール 7はノルデン爆撃照準器とほとんど同一の機能を有していたが、操作はより簡単だった。 ラングはスパイ法違反について18年、外国代理人登録法違反について2年の懲役が言い渡された。1950年9月、ドイツへ強制送還された。
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