ドイチェフースバルマイスターシャフト1947-1948とは? わかりやすく解説

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ドイチェ・フースバルマイスターシャフト1947-1948

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/26 23:27 UTC 版)

Deutsche Fußballmeisterschaft
シーズン 1947-1948
優勝 1.FCニュルンベルク
(7回目)
試合数 7
ゴール数 30 (1試合平均4.29)
得点王 ヴェアナー・バスラードイツ語版
フリッツ・マヒャテドイツ語版
ハインリヒ・シャファードイツ語版
オットマー・ヴァルター
(3点)
1946-1947
1948-1949 (西)
1949 (東) →

ドイチェ・フースバルマイスターシャフト 1947-1948 は、ドイツサッカー協会によって開催された第39回目の大会である。1.FCニュルンベルクが優勝し、7回目のドイチャー・フースバルマイスターの座に就いた[1][2]ソ連占領地域が参加した唯一の大会であったが、ベルリン封鎖の影響で試合は実現しなかった。

概要

第二次世界大戦後最初のドイチェ・マイスターシャフトは、オーダー・ナイセ線以東の旧ドイツ東部領土を除く「全ドイツ」で争われた。連合国占領開始から最初の2シーズン、各占領地域・共同管理地区ベルリンにおけるサッカーリーグ再建が行われ、3シーズン目の今季はソ連占領地域においても、東ドイツ1部リーグ・DDRフースバル・オーバーリーガの前身である、オストツォーネンマイスターシャフトが開催され、機は熟した。各地域の王者・準王者らが出そろい、彼らによるドイツ王者決定ラウンドが4年ぶりに復活したのである[3]

大会形式は8クラブによる中立地1試合制トーナメントで、出場権はアメリカイギリスフランス占領地域の各上位2クラブ、ソ連占領地域とベルリンリーグの各王者に与えられた。

DM復活の動きと連動して、ソ連占領地域では戦後3シーズン目にして初めて、各州上位クラブによるトーナメントが行われた。予備選・直接エントリー合わせて、計10クラブが参加している。州リーグ戦がまともに開催されたのは、メクレンブルク=フォアポンメルンブランデンブルクだけであった。その他の3州 (ザクセン=アンハルトザクセンテューリンゲン) では郡・地区単位のリーグ戦しか開催されず、各州2クラブの代表を決めるプレーオフが、決勝大会直前の短期間に行われた。結果はSGプラニッツが優勝し、DM出場権を獲得した。

対して、既に2シーズンかけて再建されていた西側占領地域とベルリンでは、整然とした大会が行われた。昨季と同じく、米国占領地域 (オーバリーガ・ズュートドイツ語版)とベルリン (ベルリナー・シュタットリーガドイツ語版)では1グループのリーグ戦、フランス占領地域 (オーバーリーガ・ズュートヴェス (1945-1963)トドイツ語版) では2つのグループの勝者が決勝で対戦する方式である[4]

そして英国占領地域では、オーバーリーガ・ノルトドイツ語版オーバーリーガ・ヴェストドイツ語版が新たに創設され、占領地域王者を決めるブリティッシェ・ツォーネンマイスターシャフトを通じて、DM出場権を争う。対象地域は、オーバーリーガ・ノルトが北部のニーダーザクセンハンブルクブレーメンシュレースヴィヒ=ホルシュタイン。オーバーリーガ・ヴェストは現在のノルトライン=ヴェストファーレン州である。

この当時まだ連合軍軍政期であったが、すでに西ドイツ国内サッカーの基本的システムは出来上がっていた。北部・西部・南西部・南部・(西)ベルリンからなる5つのオーバーリーガと、その各上位クラブが出場するDM決勝大会である。若干の変更はあれど、1963年のブンデスリーガ創設までは、これが基本的な王者決定方式として維持された。

ただ連合国の分割占領が続いている以上、あくまでもツォーネンマイスターシャフトドイツ語版の枠内で行われる。イギリス占領地域においては、今大会が最後の域内王者決定戦となった。今季は北部・西部ラウンドはオーバーリーガとして行われ、双方の上位4クラブずつ・計8クラブが占領地域決勝トーナメントに進出し、決勝に残った2クラブがDM出場権を獲得する。

しかし本大会では、連合国同士の政治的対立 (冷戦)が戦後初のDMに水を差した。本大会開幕の4週間前、1948年6月21日に西側三ヶ国の占領地域で1948年西部ドイツ通貨統合ドイツ語版が行われ、以降ソ連占領地域との分断が深まっていった[5]

ソ連占領当局は、マーシャル・プランによるドル流入と西側への労働力流出を防ぐため、6月24日よりベルリン封鎖を開始した[4]。SGプラニッツはこの影響をまともに受け、7月18日にシュトゥットガルトで開催予定だった準々決勝出場を断念、そのまま不戦敗となってしまう[4]。かくして「戦後初のドイツ王者決定戦」は、実質的に「西ドイツ初代王者決定戦」へと変質したのであった[4]。その後、1949-1950年度にも東ドイツとの間で参加交渉が行われたが、実現しなかった。

その後、1948年から1991年まで「ドイツサッカー王者」の系譜は二つに分岐していくこととなる (戦前から続くDFBのドイチャーマイスターと、東ドイツのDDRマイスター) 。戦後最初の、そして西ドイツの実質初代王者になったのは、1.FCニュルンベルク。決勝で1.FCカイザースラウテルンを下し、優勝回数を単独最多の7回まで伸ばした[6]

ツォーネンマイスターシャフト

アメリカ占領地域

オーバーリーガ・ズュート1947-1948ドイツ語版は、昨季王者の1.FCニュルンベルクが連覇を決め、2位TSV1860ミュンヘンとともにDM出場権を獲得した。

フランス占領地域

オーバーリーガ・ズュートヴェスト1947-1948ドイツ語版は南北2つのグループで行われ、1位同士と2位同士でプレーオフを行い、勝った2クラブがDM出場権を獲得する[4]。北部グループは1位の1.FCカイザースラウテルンと、2位の1.FCザールブリュッケンがPOに進出した。

ところがその後、ザールラントのクラブがオーバーリーガを脱退し、フランス2部リーグエーレンリーガ・ザールラントドイツ語版に移籍したので[7]、北部3位のSpVggノイエンドルフが繰り上がりでPOに進出。南部グループからは1位SVフォルトゥナ・ラシュタットドイツ語版と、2位SpVggオッフェンブルクドイツ語版がPOに出場した。グループ1位同士のPOはカイザースラウテルン (占領地域王者)、2位同士のPOはノイエンドルフが勝利し、それぞれDM出場権を獲得した。

イギリス占領地域

北部ではオーバーリーガ・ノルト1947-1948ドイツ語版、西部ではオーバーリーガ・ヴェスト1947-1948ドイツ語版が行われた。双方の上位4クラブずつ・計8クラブによる決勝トーナメントでは、ノルト優勝のハンブルガーSVと2位FCザンクト・パウリが占領地域決勝に到達し、DM出場権を獲得。決勝はHSVが6-1で勝って優勝し、最後の英占領地域王者となった。

ベルリン

シュタットリーガ・ベルリン1947-1948ドイツ語版は引き続き12クラブで行われ、昨季昇格したSGオーバーシェーネバイデドイツ語版が優勝、DM出場権を獲得した。

ソ連占領地域

オストツォーネンマイスターシャフト1948ドイツ語版は、5つの州 (メクレンブルク、ブランデンブルク、ザクセン=アンハルト、ザクセン、テューリンゲン) の王者と準王者、計10クラブによるトーナメントで争われた。決勝戦ではザクセン州のSGプラニッツがザクセン=アンハルト州のSGフライームフェルデ・ハレ (現トゥルビーネ・ハレドイツ語版) を1-0で下し、DM出場権を獲得した[5]

出場クラブ[1]

クラブ 出場資格
ハンブルガーSV → イギリス占領地域優勝
FCザンクト・パウリ → イギリス占領地域準優勝
1.FCカイザースラウテルン → フランス占領地域優勝
SpVggノイエンドルフ → フランス占領地区準優勝
1.FCニュルンベルク → アメリカ占領地区優勝
TSV1860ミュンヘン → アメリカ占領地区準優勝
SGプラニッツ → ソ連占領地区優勝
SGオーバーシェーネバイデドイツ語版 → ベルリナー・マイスター

準々決勝

TuSノイエンドルフ 2 – 1 ハンブルガーSV
ミルツ  67分74分 アダムキエヴィチュ  53分
シュタディオン・ローテ・エアデ, ドルトムント
観客数: 20,000
主審: Schmetzer (マンハイム)

1.FCカイザースラウテルン 5 – 1
(1 – 0)
TSV1860ミュンヘン
Christmann  32分70分
O・ヴァルター  64分
Baßler  83分85分 (pen.)
Thanner  62分
ヴォルマティア=シュターディオン, ヴォルムス
観客数: 30,000
主審: Raspel (デュッセルドルフ)

SGオーバーシェーネバイデ 0 – 7
(0 – 4)
FCザンクト・パウリ
Michael  3分
Machate  8分61分
Schaffer  33分43分86分
Lehmann  59分
観客数: 70,000
主審: Huhn (シュヴァーンドイツ語版)

準決勝

1.FCニュルンベルク 3 – 2 (延長) FCザンクト・パウリ
Hagen  31分
Winterstein  33分
Pöschl  94分
Lehmann  56分
Machate  82分
シュタディオン, マンハイム
観客数: 38,000
主審: Glöckner (ピルマゼンス)

1.FCカイザースラウテルン 5 – 1
(2 – 0)
TuSノイエンドルフ
F・ヴァルター  22分
Grewenig  44分
Baßler  53分
O・ヴァルター  83分85分
Warth  86分
シュターディオン・アム・ツォー, ヴッパータール
観客数: 50,000
主審: Strobel (シュヴァーバッハ)

決勝

1.FCニュルンベルク 2 – 1 1.FCカイザースラウテルン
ヴィンターシュタイン  10分
ペーシュル  25分
ユーベライン  62分 (o.g.)
観客数: 75,000人
主審: エーリヒ・ブルマイスター (ハンブルク)
1.FCニュルンベルク
  エドゥアート・シャッファードイツ語版
  ハンス・ユーベラインドイツ語版
  アードルフ・クノル (1924年生まれのサッカー選手)ドイツ語版
  ゲアハート・ベアクナードイツ語版
  ゲオーク・ケンネマンドイツ語版
  ローバート・ゲプハートドイツ語版
  ヘルムート・ヘアボルスハイマードイツ語版
  マックス・モーロック
  ハンス・ペーシュルドイツ語版
  コンラート・ヴィンターシュタインドイツ語版
  ゲオーク・ハーゲン (サッカー選手)ドイツ語版
監督
アールヴィン・リームケ (サッカー選手)ドイツ語版
1.FCカイザースラウテルン
  ヴィリ・ヘールツドイツ語版
  ルドルフ・フッパートドイツ語版
  ヴェアナー・コールマイアードイツ語版
  エアンスト・リープリヒドイツ語版
  ヴェアナー・リープリヒドイツ語版
  ハインツ・クレードイツ語版
  ギュンター・グレーヴェニヒドイツ語版
  フリッツ・ヴァルター
  オットマー・ヴァルター
  ヴェアナー・バスラードイツ語版
  ハンス・クリストマンドイツ語版
監督

脚注

注釈

出典

  1. ^ a b Pierre Winkler (4 Nov 2011). “Germany - Championships 1947-1963” (英語). RSSSF. 2025年2月5日閲覧。
  2. ^ Deutsche Meisterschaft 1947/1948 » Finale” (ドイツ語). weltfussbal.de. 2025年2月5日閲覧。
  3. ^ リヒテンベルガー/秋吉 2005, 168-169頁
  4. ^ a b c d e リヒテンベルガー/秋吉 2005, 170頁
  5. ^ a b リヒテンベルガー/秋吉 2005, 174頁
  6. ^ リヒテンベルガー/秋吉 2005, 171頁
  7. ^ リヒテンベルガー/秋吉 2005, 177頁

参考文献

  • ウルリッヒ・ヘッセ・リヒテンベルガー 秋吉香代子訳 (2005). ブンデスリーガ ドイツサッカーの軌跡. バジリコ株式会社. ISBN 4-901784-92-7 

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