ドイチェ・フースバルマイスターシャフト1947-1948
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シーズン | 1947-1948 |
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優勝 | 1.FCニュルンベルク (7回目) |
試合数 | 7 |
ゴール数 | 30 (1試合平均4.29) |
得点王 | ヴェアナー・バスラー フリッツ・マヒャテ ハインリヒ・シャファー オットマー・ヴァルター (3点) |
1948-1949 (西)
1949 (東) → |
ドイチェ・フースバルマイスターシャフト 1947-1948 は、ドイツサッカー協会によって開催された第39回目の大会である。1.FCニュルンベルクが優勝し、7回目のドイチャー・フースバルマイスターの座に就いた[1][2]。ソ連占領地域が参加した唯一の大会であったが、ベルリン封鎖の影響で試合は実現しなかった。
概要
第二次世界大戦後最初のドイチェ・マイスターシャフトは、オーダー・ナイセ線以東の旧ドイツ東部領土を除く「全ドイツ」で争われた。連合国占領開始から最初の2シーズン、各占領地域・共同管理地区ベルリンにおけるサッカーリーグ再建が行われ、3シーズン目の今季はソ連占領地域においても、東ドイツ1部リーグ・DDRフースバル・オーバーリーガの前身である、オストツォーネンマイスターシャフトが開催され、機は熟した。各地域の王者・準王者らが出そろい、彼らによるドイツ王者決定ラウンドが4年ぶりに復活したのである[3]。
大会形式は8クラブによる中立地1試合制トーナメントで、出場権はアメリカ・イギリス・フランス占領地域の各上位2クラブ、ソ連占領地域とベルリンリーグの各王者に与えられた。
DM復活の動きと連動して、ソ連占領地域では戦後3シーズン目にして初めて、各州上位クラブによるトーナメントが行われた。予備選・直接エントリー合わせて、計10クラブが参加している。州リーグ戦がまともに開催されたのは、メクレンブルク=フォアポンメルンとブランデンブルクだけであった。その他の3州 (ザクセン=アンハルト、ザクセン、テューリンゲン) では郡・地区単位のリーグ戦しか開催されず、各州2クラブの代表を決めるプレーオフが、決勝大会直前の短期間に行われた。結果はSGプラニッツが優勝し、DM出場権を獲得した。
対して、既に2シーズンかけて再建されていた西側占領地域とベルリンでは、整然とした大会が行われた。昨季と同じく、米国占領地域 (オーバリーガ・ズュート)とベルリン (ベルリナー・シュタットリーガ)では1グループのリーグ戦、フランス占領地域 (オーバーリーガ・ズュートヴェス (1945-1963)ト) では2つのグループの勝者が決勝で対戦する方式である[4]。
そして英国占領地域では、オーバーリーガ・ノルトとオーバーリーガ・ヴェストが新たに創設され、占領地域王者を決めるブリティッシェ・ツォーネンマイスターシャフトを通じて、DM出場権を争う。対象地域は、オーバーリーガ・ノルトが北部のニーダーザクセン、ハンブルク、ブレーメン、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン。オーバーリーガ・ヴェストは現在のノルトライン=ヴェストファーレン州である。
この当時まだ連合軍軍政期であったが、すでに西ドイツ国内サッカーの基本的システムは出来上がっていた。北部・西部・南西部・南部・(西)ベルリンからなる5つのオーバーリーガと、その各上位クラブが出場するDM決勝大会である。若干の変更はあれど、1963年のブンデスリーガ創設までは、これが基本的な王者決定方式として維持された。
ただ連合国の分割占領が続いている以上、あくまでもツォーネンマイスターシャフトの枠内で行われる。イギリス占領地域においては、今大会が最後の域内王者決定戦となった。今季は北部・西部ラウンドはオーバーリーガとして行われ、双方の上位4クラブずつ・計8クラブが占領地域決勝トーナメントに進出し、決勝に残った2クラブがDM出場権を獲得する。
しかし本大会では、連合国同士の政治的対立 (冷戦)が戦後初のDMに水を差した。本大会開幕の4週間前、1948年6月21日に西側三ヶ国の占領地域で1948年西部ドイツ通貨統合が行われ、以降ソ連占領地域との分断が深まっていった[5]。
ソ連占領当局は、マーシャル・プランによるドル流入と西側への労働力流出を防ぐため、6月24日よりベルリン封鎖を開始した[4]。SGプラニッツはこの影響をまともに受け、7月18日にシュトゥットガルトで開催予定だった準々決勝出場を断念、そのまま不戦敗となってしまう[4]。かくして「戦後初のドイツ王者決定戦」は、実質的に「西ドイツ初代王者決定戦」へと変質したのであった[4]。その後、1949-1950年度にも東ドイツとの間で参加交渉が行われたが、実現しなかった。
その後、1948年から1991年まで「ドイツサッカー王者」の系譜は二つに分岐していくこととなる (戦前から続くDFBのドイチャーマイスターと、東ドイツのDDRマイスター) 。戦後最初の、そして西ドイツの実質初代王者になったのは、1.FCニュルンベルク。決勝で1.FCカイザースラウテルンを下し、優勝回数を単独最多の7回まで伸ばした[6]。
ツォーネンマイスターシャフト
アメリカ占領地域
オーバーリーガ・ズュート1947-1948は、昨季王者の1.FCニュルンベルクが連覇を決め、2位TSV1860ミュンヘンとともにDM出場権を獲得した。
フランス占領地域
オーバーリーガ・ズュートヴェスト1947-1948は南北2つのグループで行われ、1位同士と2位同士でプレーオフを行い、勝った2クラブがDM出場権を獲得する[4]。北部グループは1位の1.FCカイザースラウテルンと、2位の1.FCザールブリュッケンがPOに進出した。
ところがその後、ザールラントのクラブがオーバーリーガを脱退し、フランス2部リーグとエーレンリーガ・ザールラントに移籍したので[7]、北部3位のSpVggノイエンドルフが繰り上がりでPOに進出。南部グループからは1位SVフォルトゥナ・ラシュタットと、2位SpVggオッフェンブルクがPOに出場した。グループ1位同士のPOはカイザースラウテルン (占領地域王者)、2位同士のPOはノイエンドルフが勝利し、それぞれDM出場権を獲得した。
イギリス占領地域
北部ではオーバーリーガ・ノルト1947-1948、西部ではオーバーリーガ・ヴェスト1947-1948が行われた。双方の上位4クラブずつ・計8クラブによる決勝トーナメントでは、ノルト優勝のハンブルガーSVと2位FCザンクト・パウリが占領地域決勝に到達し、DM出場権を獲得。決勝はHSVが6-1で勝って優勝し、最後の英占領地域王者となった。
ベルリン
シュタットリーガ・ベルリン1947-1948は引き続き12クラブで行われ、昨季昇格したSGオーバーシェーネバイデが優勝、DM出場権を獲得した。
ソ連占領地域
オストツォーネンマイスターシャフト1948は、5つの州 (メクレンブルク、ブランデンブルク、ザクセン=アンハルト、ザクセン、テューリンゲン) の王者と準王者、計10クラブによるトーナメントで争われた。決勝戦ではザクセン州のSGプラニッツがザクセン=アンハルト州のSGフライームフェルデ・ハレ (現トゥルビーネ・ハレ) を1-0で下し、DM出場権を獲得した[5]。
出場クラブ[1]
クラブ | 出場資格 |
ハンブルガーSV | → イギリス占領地域優勝 |
FCザンクト・パウリ | → イギリス占領地域準優勝 |
1.FCカイザースラウテルン | → フランス占領地域優勝 |
SpVggノイエンドルフ | → フランス占領地区準優勝 |
1.FCニュルンベルク | → アメリカ占領地区優勝 |
TSV1860ミュンヘン | → アメリカ占領地区準優勝 |
SGプラニッツ | → ソ連占領地区優勝 |
SGオーバーシェーネバイデ | → ベルリナー・マイスター |
準々決勝
TuSノイエンドルフ | 2 – 1 | ハンブルガーSV |
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ミルツ ![]() |
アダムキエヴィチュ ![]() |
1.FCカイザースラウテルン | 5 – 1 (1 – 0) |
TSV1860ミュンヘン |
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Christmann ![]() O・ヴァルター ![]() Baßler ![]() |
Thanner ![]() |
SGオーバーシェーネバイデ | 0 – 7 (0 – 4) |
FCザンクト・パウリ |
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Michael ![]() Machate ![]() Schaffer ![]() Lehmann ![]() |
準決勝
1.FCニュルンベルク | 3 – 2 (延長) | FCザンクト・パウリ |
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Hagen ![]() Winterstein ![]() Pöschl ![]() |
Lehmann ![]() Machate ![]() |
1.FCカイザースラウテルン | 5 – 1 (2 – 0) |
TuSノイエンドルフ |
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F・ヴァルター ![]() Grewenig ![]() Baßler ![]() O・ヴァルター ![]() |
Warth ![]() |
決勝
1.FCニュルンベルク | 2 – 1 | 1.FCカイザースラウテルン |
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ヴィンターシュタイン ![]() ペーシュル ![]() |
ユーベライン ![]() |
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脚注
注釈
出典
- ^ a b Pierre Winkler (4 Nov 2011). “Germany - Championships 1947-1963” (英語). RSSSF. 2025年2月5日閲覧。
- ^ “Deutsche Meisterschaft 1947/1948 » Finale” (ドイツ語). weltfussbal.de. 2025年2月5日閲覧。
- ^ リヒテンベルガー/秋吉 2005, 168-169頁
- ^ a b c d e リヒテンベルガー/秋吉 2005, 170頁
- ^ a b リヒテンベルガー/秋吉 2005, 174頁
- ^ リヒテンベルガー/秋吉 2005, 171頁
- ^ リヒテンベルガー/秋吉 2005, 177頁
参考文献
- ウルリッヒ・ヘッセ・リヒテンベルガー 秋吉香代子訳 (2005). ブンデスリーガ ドイツサッカーの軌跡. バジリコ株式会社. ISBN 4-901784-92-7
外部リンク
- Nürnberg und Kaiserslautern Endspielteilnehmer, Badische Neueste Nachrichten vom 27. Juli 1948 S. 2 im Deutschen Zeitungsportal
- Die Endspielpaarung heißt 1. FC Nürnberg - 1. FC Kaiserslautern, Neuer Westfälischer Kurier vom 26. Juli 1948 S. S. 3 bei https://zeitpunkt.nrw/
- Der FC Nürnberg zum 7. Male Deutscher Fußballmeister, Badische Neueste Nachrichten vom 9. August 1948 S. 3 im Deutschen Zeitungsportal
- Der Club zum 7. Male Deutscher Fußballmeister, Neuer Westfälischer Kurier vom 9. August 1948 S. S. 3 bei <nowiki>https://zeitpunkt.nrw/
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