ドイチェ・フースバルマイスターシャフト1949-1950
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| シーズン | 1949-1950 |
|---|---|
| 優勝 | VfBシュトゥットガルト (1回目) |
| 試合数 | 17 |
| ゴール数 | 66 (1試合平均3.88) |
| 得点王 | (5点) |
ドイチェ・フースバルマイスターシャフト 1949-1950 はドイツサッカー協会によって開催された第41回目のクラブチーム全国大会である。VfBシュトゥットガルトが初優勝し、1回目のドイチャー・フースバルマイスターの座に就いた[1][2]。
概要
戦後初めて、ドイチェ・マイスターシャフト本大会出場枠は8クラブから16クラブに拡大した。その理由は、ドイツ民主共和国のクラブを参加させようとした事にある。
実際、1950年5月にはDFBと東ドイツスポーツ委員会との間で、DMの大会形式に関する話し合いが持たれていた。日刊新聞ベルリナー・ツァイトゥングは、「DDRマイスターシャフト1949-1950終了後、ホルヒ・ツヴィカウ、タバク・ドレスデン、ワゴンバウ・デッサウが共和国を代表してドイチェ・マイスターシャフトに出場するだろう」と報じた。タバク・ドレスデンは、解散したSGドレスデン=フリードリヒシュタットの代理であった。結局合意に至らなかったが、その理由や経緯については双方主張が食い違っていて、詳しいところは不明である。
東ドイツスポーツ委員会はDFBに宛てた手紙で、両ドイツの選手が平等に競い合っていることをDMを通じて表現し、「統一ドイツ民主共和国」を達成したいという考えを伝えた。それはドイツ国家とスポーツの分断を企む勢力を一掃する、すべてのドイツ人による大きな統一国民戦線のことであり、東ドイツ人の考える「分断を企む勢力」とは、具体的には米国・イギリス・フランスの、西側連合国が名指しされていた[3]。なお、東ドイツの出場枠は、西ドイツの地方協会と同等のものが予定されていた。
16クラブ制への拡大に伴い、ベルリナー・シュタットリーガ (まだ東西に分断されていない[4])からは1位テニス・ボルシア・ベルリン (西ベルリン)に加えて、2位ウニオン・オーバーシェーネバイデ (東ベルリン) にもDM出場権が与えられた。これは新たな問題の発端だった。 オーバーシェーネバイデは、準々決勝のハンブルガーSV戦が行われるキールへの渡航許可を得られなかったのだが、大半の選手は諦めずに自己責任で境界線を越え、1950年5月28日シュタディオン・ヴァルトヴィーゼでHSVに0-7と大敗した。その後1950年6月9日、この選手たちは西ベルリンで、分派のSCウニオン06ベルリンを結成した[5]。その後ドイツ民主共和国 (東ドイツ)が樹立し、東ベルリンのクラブはシュタットリーガを脱退し、本家のウニオンオーバーシェーネバイデも東ドイツリーグに移籍した[5]。
出場クラブ[1]
| ハンブルガーSV | → フースバル・オーバーリーガ1949-1950ノルト マイスター |
| FCザンクト・パウリ | → オーバーリーガ・ノルト1949-1950準優勝 |
| VfLオスナブリュック | → オーバーリーガ・ノルト1949-1950三位 |
| ボルシア・ドルトムント | → オーバーリーガ・ヴェスト1949-1950マイスター |
| プロイセン・デルブリュック | → オーバーリーガ・ヴェスト1949-1950準優勝 |
| ロート=ヴァイス・エッセン | → オーバーリーガ・ヴェスト1949-1950 三位 |
| STVホルスト=エムシャー | → オーバーリーガ・ヴェスト1949-1950 四位 |
| 1.FCカイザースラウテルン | → オーバーリーガ・ズュートヴェスト1949-1950マイスター |
| SSVロイトリンゲン05 | → オーバーリーガ・ズュートヴェスト1949-1950 準優勝 |
| TuSノイエンドルフ | → オーバーリーガ・ズュートヴェスト1949-1950 三位 |
| SpVggフュルト | → オーバーリーガ・ズュート1949-1950]]マイスター |
| VfBシュトゥットガルト | → オーバーリーガ・ズュート1949-1950 準優勝 |
| キッカース・オッフェンバッハ | → オーバーリーガ・ズュート1949-1950 三位 |
| VfRマンハイム | → オーバーリーガ・ズュート1949-1950 四位 |
| テニス・ボルシア・ベルリン | → シュタットリーガ・ベルリン1949-1950マイスター |
| ウニオン・オーバーシェーネバイデ | → シュタットリーガ・ベルリン準優勝 |
ラウンドオブ16
| 1950年5月21日 | 1.FCカイザースラウテルン | 2 – 2 延長 |
ロート=ヴァイス・エッセン | カールスルーエ | |
| F・ヴァルター |
アブロマイト テアマト |
競技場: ミュールブルガー・シュタディオン 観客数: 20,000 主審: Heuck (キール) |
| 1950年5月21日 | SpVggフュルト | 3 – 2 | STVホルスト=エムシャー | ヴォルムス | |
| シャーデ Hoffmann |
クロット Zielinski |
競技場: ヴォルマティア=シュタディオン 観客数: 25,000 主審: Rannersmann (ブレーメン) |
| 1950年5月21日 | プロイセン・デルブリュック | 1 – 0 延長 |
SSVロイトリンゲン | コブレンツ | |
| Severin |
競技場: シュタディオン・オーバーヴェルト 観客数: 20,000 主審: Szymalek (ベルリン) |
| 1950年5月21日 | ボルシア・ドルトムント | 1 – 3 | VfRマンハイム | グラートベック | |
| Kasperski |
デ・ラ・フィーグネ Löttke |
競技場: シュターディオン・グラートベック 観客数: 38,000 主審: Burmeister (ハンブルク) |
| 1950年5月21日 | VfBシュトゥットガルト | 2 – 1 | VfLオスナブリュック | ケルン | |
| Guhre Baitinger |
Vetter |
競技場: ミュンガースドルファー・シュタディオン 観客数: 25,000 主審: Rosenkranz (ゲルゼンキルヘン) |
| 1950年5月21日 | キッカース・オッフェンバッハ | 3 – 1 | テニス・ボルシア・ベルリン | ミュンヘン | |
| カウフホルト ブーツ |
ハンス・ベアント |
観客数: 15,000 主審: Berndt (デュッセルドルフ) |
| 1950年5月21日 | FCザンクト・パウリ | 4 – 0 | TuSノイエンドルフ | ハノーファー | |
| Kruppa Sump ベック |
競技場: シュタディオン・デア・ハウプトシュタット・ハノーファー 観客数: 15,000 主審: Ruhmann (レーゲンスブルク) |
| 1950年5月28日 | ハンブルガーSV | 7 – 0 | SCウニオン06ベルリン | キール | |
| Woitkowiak Rohrberg アダムキエヴィチュ |
競技場: VfBプラッツ 観客数: 12,000 主審: Fink (フランクフルト・アム・マイン) |
再試合
| 1950年5月29日 | 1.FCカイザースラウテルン | 3 – 2 延長 |
ロート=ヴァイス・エッセン | ケルン | |
| Baßler F・ヴァルター O・ヴァルター |
Kleina テアマト |
競技場: ミュンガースドルファー・シュタディオン 観客数: 45,000 主審: Gabriel (ハノーファー) |
準々決勝
| VfBシュトゥットガルト | 5 – 2 | 1.FCカイザースラウテルン |
|---|---|---|
| シュリーエンツ Bühler Läpple Blessing Baitinger |
O・ヴァルター |
| SpVggフュルト | 2 – 1 | FCザンクト・パウリ |
|---|---|---|
| Brenzke Nöth |
Zimmermann |
| キッカース・オッフェンバッハ | 3 – 2 | ハンブルガーSV |
|---|---|---|
| ブーツ Wirsching Weber |
アダムキエヴィチュ Woitkowiak |
| プロイセン・デルブリュック | 2 – 1 | VfRマンハイム |
|---|---|---|
| Severin Drost |
デ・ラ・フィーグネ |
準決勝
| VfBシュトゥットガルト | 4 – 1 | SpVggフュルト |
|---|---|---|
| Bühler Blessing Läpple |
シャーデ |
再試合
| プロイセン・デルブリュック | 0 – 3 | キッカース・オッフェンバッハ |
|---|---|---|
| カウフホルト ハインリヒ・バース Weber |
決勝
| VfBシュトゥットガルト | 2 – 1 | キッカース・オッフェンバッハ |
|---|---|---|
| レプレ ビューラー |
ブーツ |
脚注
注釈
出典
- ^ a b Pierre Winkler (4 Nov 2011). “Germany - Championships 1947-1963” (英語). RSSSF. 2025年2月5日閲覧。
- ^ “Deutsche Meisterschaft 1949/1950 » Finale” (ドイツ語). weltfussbal.de. 2025年2月5日閲覧。
- ^ Offener Brief des DS an den DFB, in: Neue Fußball-Woche Nr. 20/1950, Seite 3: Цarum es nicht zur ,Deutschen‘ kam“.
- ^ リヒテンベルガー/秋吉 2005, 174頁
- ^ a b リヒテンベルガー/秋吉 2005, 175頁
参考文献
- ウルリッヒ・ヘッセ・リヒテンベルガー 秋吉香代子訳 (2005). ブンデスリーガ ドイツサッカーの軌跡. バジリコ株式会社. ISBN 4-901784-92-7
- Goergen, Jeanpaul: Fußball auf großer Leinwand. Die Deutsche Fußballmeisterschaft von 1950 in Wochenschau und Dokumentarfilm. In: Filmblatt, 17. Jg., Nr. 49 Sommer 2012, 61–73.
外部リンク
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