トレビゾンドの崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 19:05 UTC 版)
「ギオルギ8世 (ジョージア王)」の記事における「トレビゾンドの崩壊」の解説
隣接するトレビゾンド帝国はコンスタンティノープルの陥落後の、東ローマ帝国最後の拠点であった。ギオルギ8世の祖先であるタマルの支援を受けて1204年に黒海沿岸で建国されたこの国は、ジョージア王国にとって最も近い同盟国の一つであった。ギオルギ8世の妹と結婚したヨハネス4世は、青年期に両親と対立してジョージアへ逃れ、ジョージアの王宮で暮らしていた。ギオルギ8世はヨーロッパ諸国との連携において、トレビゾンド帝国の軍が次の十字軍に参加することを約束した。 ジョージア王国とトレビゾンド帝国の密接な同盟関係は、東ローマ帝国を征服したメフメト2世にとって不愉快なものであった。コンスタンティノープルと同じ運命になることを恐れたヨハネス4世は、ギオルギ8世に軍事的援助を求めた。オスマン帝国は、トレビゾンドの街が複雑な城壁によって堅固に守られていることから、ジョージア王国の艦隊が出動してしまえば帝国の首都を救うことができてしまうと理解していた。オスマン帝国に仕えたコンスタンティン・ミハイロヴィチ(セルビア語版)はギオルギ8世に脅しをかけ、ギオルギ8世がトレビゾンドの支援に動くのを妨害するために、メフメト2世がジョージアに侵入したと述べている。オスマン帝国はリオニ川とシスコーカサスの山々まで前進し、クタイシを攻撃する可能性を示した。 1460年9月14日、ジョージアの使節がまだヨーロッパにいた間、メフメト2世はトレビゾンドを包囲した。ヨハネス4世の後を継いだトレビゾンド皇帝ダヴィドは、隣接する同盟国からの助けを待ち続けたが、とうとう1461年8月15日にトレビゾンドは降伏し、東ローマ帝国系の最後の王朝として存在していたトレビゾンド帝国は滅亡した。ミカエル8世パレオロゴスによるコンスタンティノープルの再征服(イタリア語版)から、ちょうど200年後の出来事であった。皇帝ダヴィドの妻エレナ・カンダクジノス(ギリシア語版)は、メフメト2世の怒りから逃れてジョージアに避難した。数年後、ダヴィトの唯一の生き残りの子ゲオルギオス・コムネノス(wikidata)がコンスタンティノープルの牢獄から解放され、ギオルギ8世のもとに避難した。
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