トリンコマリー包囲戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/04/23 11:22 UTC 版)
「セイロン侵攻」の記事における「トリンコマリー包囲戦」の解説
8月3日、説得に失敗したステュアートとレーニアは侵攻を続行した。トリンコマリーから約7キロメートル北のところで上陸したイギリス軍は砂地を緩慢に行軍した。荒波と強風により上陸は13日まで完了せず、砲台の設置は18日まで始まらなかった。にもかかわらず、バタヴィア駐留軍はそれをまったく妨害しようとしなかった。5日後、8門の18ポンド長砲(英語版)と数門の砲台の準備が整い、すぐに砲撃をはじめたイギリス軍はトリンコマリーの城壁に大穴を開けた。続いて突撃の準備をしたイギリス軍は再度降伏を勧告した。 しばしの交渉、そして短期間の砲撃の再開の後、バタヴィアの司令官は降伏した。679人の駐留軍が捕虜になり、大砲100門以上が鹵獲された。一方のイギリスの損害は、死者16名と負傷者60名に留まった。8月27日、近くのオステンブルク要塞も降伏を勧告され、4日後にトリンコマリーと同じ条件で降伏した。バタヴィアの抵抗が止まると、イギリスは交易地に次々と侵攻し、9月18日には第22歩兵連隊(英語版)がバッティカロアを、9月27日にはステュアート自らが率いる陸軍がジャフナを、10月1日には18門スループのホバート(英語版)に乗っていた第52歩兵連隊(英語版)からの派遣がムッライッティーヴーを、10月5日にはマンナール島をそれぞれ陥落させた。
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