デス・ロウとの抗争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/19 08:30 UTC 版)
「バッド・ボーイ・レコード」の記事における「デス・ロウとの抗争」の解説
バッド・ボーイがレーベルとして、またノトーリアスB.I.G.(ビギー)がアーティストとして、急激な成功を収めてしまったことは、一部の人々の中に反感を生み出すことになった。特に知られているのが、ロサンゼルスを拠点とするデス・ロウ・レコードであった。1995年までの2年間、デス・ロウ(を中心とする西海岸ヒップホップ)は、ラップ業界を牛耳ってきた。しかしそこに、バッド・ボーイを中心とする東海岸ヒップホップが息を吹き返してきたのである。特にデス・ロウの最高経営責任者であったシュグ・ナイトは、バッド・ボーイの登場が気に食わず、公にコムズを野次っていた。ビギーとの抗争の度合いを過熱させてきていたトゥパック・シャクールが、デス・ロウと契約を結んだことで、緊張がより高まった。またヒップホップのファンたちの中に、ビギー/トゥパック、バッド・ボーイ/デスロウ、東海岸/西海岸、という形で、どちらか一方の肩を持つような行動を取ったことも、この対立を過熱させることになっていった。コムズ自身は、この対立関係を回避しようとする試みを行ったり、バッド・ボーイのアーティストたちが西海岸からの攻勢にやり返すことを禁じたりしたのだが、1996年に、この関係がお互いの我慢の限界を超えてしまうところまで達する頃には、コムズの言葉に耳を貸すような者たちは少なかった。その後、トゥパックが射殺される。バッド・ボーイは、公式に弔辞を発表するが、悲劇は続いてしまう。1997年 3月9日、2枚目のアルバム「ライフ・アフター・デス」の発売を目前に控え、ビギーもまた、射殺されてしまった。ビギーとトゥパックの死に関しては、東西対立が原因だと考える人も多いが、警察による捜査は、未解決のままである。
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