ダーウィンへの最初の空襲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 06:45 UTC 版)
「日本のオーストラリア空襲」の記事における「ダーウィンへの最初の空襲」の解説
詳細は「ダーウィン空襲」を参照 1942年2月19日のダーウィン市への爆撃は、日本がオーストラリア本土に対して行った最初にして最大規模の攻撃だった。2月19日に4隻の日本航空母艦(赤城、加賀、飛龍、蒼龍)はオーストラリア北西のチモール海の洋上から計188機を発進させた。これらの188機の日本海軍艦載機はポート・ダーウィンに甚大な被害を与え、アメリカ海軍の「USS パーリー」を含む9隻の船舶が沈没した。 同日午後に54機の陸上攻撃機によって実施された空襲は、市街地と王立オーストラリア空軍(RAAF)のダーウィン基地にさらなる被害を与え、20機の軍用機が破壊された。これらの攻撃に使用された弾薬量は、前年12月に行われた真珠湾攻撃の総量を凌ぐと言われている。 避難した多くの民間人と共に、軍すらも街から逃亡してしまったため、損害の確認に手間取ることとなったが、最終的に確認できた連合国側の人的被害は251人が死亡、300人から400人が負傷し、その大部分はイギリス軍やアメリカ軍などの、オーストラリア人以外の連合国軍水兵たちだった。ダーウィン市を防衛していたオーストラリアおよびアメリカ軍はわずかに日本機4機を撃破できただけで、この一連の空襲は完全に成功した。 全く無警戒であったオーストラリア側には、 「フットボール競技場で我々が受けとった最初の通報は、海上での空中戦という誤報だった」 「空襲の警報システムなどなかった。それどころか、我々は実弾を撃ったこともなかった」 「弾を命中させることがまったく困難だった。その熱帯気候ではたとえ短期間であろうと、信管を有効なまま貯蔵しておくことすら難しかった(有効な弾薬すらなかった)」 「爆撃機を一機撃ち落した。だがそれは、向こうの方から我々の砲弾に当ってくれたと言ったほうが正確だったろう」 というような証言が残っている。
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