タハリール広場における抗議運動のタイムラインとは? わかりやすく解説

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タハリール広場における抗議運動のタイムライン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 23:51 UTC 版)

タハリール広場」の記事における「タハリール広場における抗議運動のタイムライン」の解説

1月25日4月6日運動などによって計画され数千人のデモ隊カイロエジプト各地からタハリール広場目指し集まったデモ隊警察防衛線を突破して広場占拠した一部参加者座り込み始め夜通し広場からは動かないことを宣言した警官隊座り込みを行う参加者強制的に排除したほか、これ以上参加者集まらないように広場封鎖した1月28日金曜日金曜礼拝の後、25日のときよりも多いデモ隊タハリール広場押し寄せた。これは「怒り金曜日」と銘打たれた。デモ隊警官隊突破して広場を再び占拠した夜に警官隊姿を消し代わりに広場には軍が派遣された。しかし、エジプト軍エジプト国民の間では、一貫して国民を守る存在であるとされており、タハリール広場においても将校担ぎ上げたり、「軍と人民一つの手」というスローガン叫ばれるなど好意的に受け止められた。同日夜にタハリール広場のそばにある国民民主党本部略奪され放火された。また、同じくタハリール広場のそばにあるエジプト考古学博物館略奪を受け、54点の収蔵品盗まれた。 その後デモ隊ムバーラク辞任するまでの18日間にわたってタハリール広場占拠した1月29日にはムバーラク腹心であるオマル・スレイマーン副大統領任命するなど政治改革を行うことを発表したが、タハリール広場集まった群衆は、スレイマーンがイスラーム主義者への弾圧知られていたことから交渉拒否した1月31日にはムバーラクF16戦闘機2機をタハリール広場真上で超低空飛行させた。これは群衆への威嚇だと考えられているが、群衆は「軍と人民一つの手」と叫んだ歓声をあげるなど威嚇とは受け止めなかった。 やがて、副大統領であるスレイマーンと野党との対話始まりタハリール広場集まったデモ隊多く帰宅した。しかし、4月6日運動個人参加したムスリム同胞団メンバーなどはタハリール広場テント張り寝泊り続けながらムバーラク辞任要求し続けた2月2日ラクダ乗った若者数名タハリール広場乱入しその後群衆取り押さえられた。彼らは観光客ラクダ乗せることを生業としており、デモによって観光客途絶えたことに不満を抱き国会議員有力者金銭提供されタハリール広場乱入した2月11日副大統領であるスレイマーンは、ムバーラク辞任したことを発表した。この発表タハリール広場設置された大スクリーンから広場伝わった。これ以降憲法改正選挙経てムスリム同胞団出身ムハンマド・ムルシー新大統領となるまでは軍最高評議会エジプト統治することとなったムバーラク辞任してタハリール広場での抗議は止まらなかったが、頻度少なくなった。

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