タハリール広場における抗議運動のタイムライン
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「タハリール広場」の記事における「タハリール広場における抗議運動のタイムライン」の解説
1月25日、4月6日運動などによって計画された数千人のデモ隊がカイロやエジプトの各地からタハリール広場を目指して集まった。デモ隊は警察の防衛線を突破して広場を占拠した。一部の参加者は座り込みを始め、夜通し広場からは動かないことを宣言した。警官隊は座り込みを行う参加者を強制的に排除したほか、これ以上参加者が集まらないように広場を封鎖した。 1月28日金曜日、金曜礼拝の後、25日のときよりも多いデモ隊がタハリール広場に押し寄せた。これは「怒りの金曜日」と銘打たれた。デモ隊は警官隊を突破して広場を再び占拠した。夜には警官隊は姿を消し、代わりに広場には軍が派遣された。しかし、エジプト軍はエジプト国民の間では、一貫して国民を守る存在であるとされており、タハリール広場においても将校を担ぎ上げたり、「軍と人民は一つの手」というスローガンが叫ばれるなど好意的に受け止められた。同日の夜にはタハリール広場のそばにある国民民主党の本部が略奪され、放火された。また、同じくタハリール広場のそばにあるエジプト考古学博物館も略奪を受け、54点の収蔵品が盗まれた。 その後、デモ隊はムバーラクが辞任するまでの18日間にわたってタハリール広場を占拠した。1月29日にはムバーラクは腹心であるオマル・スレイマーンを副大統領に任命するなど政治改革を行うことを発表したが、タハリール広場に集まった群衆は、スレイマーンがイスラーム主義者への弾圧で知られていたことから交渉を拒否した。1月31日にはムバーラクはF16戦闘機2機をタハリール広場の真上で超低空飛行させた。これは群衆への威嚇だと考えられているが、群衆は「軍と人民は一つの手」と叫んだり歓声をあげるなど威嚇とは受け止めなかった。 やがて、副大統領であるスレイマーンと野党との対話も始まり、タハリール広場に集まったデモ隊の多くは帰宅した。しかし、4月6日運動や個人で参加したムスリム同胞団のメンバーなどはタハリール広場にテントを張り、寝泊りを続けながらムバーラクの辞任を要求し続けた。 2月2日、ラクダに乗った若者数名がタハリール広場に乱入し、その後、群衆に取り押さえられた。彼らは観光客にラクダを乗せることを生業としており、デモによって観光客が途絶えたことに不満を抱き、国会議員や有力者に金銭を提供されてタハリール広場に乱入した。 2月11日、副大統領であるスレイマーンは、ムバーラクが辞任したことを発表した。この発表はタハリール広場に設置された大スクリーンから広場に伝わった。これ以降、憲法改正と選挙を経てムスリム同胞団出身のムハンマド・ムルシーが新大統領となるまでは軍最高評議会がエジプトを統治することとなった。ムバーラクが辞任してもタハリール広場での抗議は止まらなかったが、頻度は少なくなった。
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