タハリール広場への改名とナーセル政権において
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「タハリール広場」の記事における「タハリール広場への改名とナーセル政権において」の解説
「エジプト革命 (1952年)」も参照 1952年、エジプトではナーセルら自由将校団によって七月革命と呼ばれる軍事クーデターが起こった。これによってファールーク国王が退位し、王制が廃止されて共和制が成立した。革命によって既存のすべての政党が解散され、翼賛的な「解放機構」が設立された。これを記念してイスマーイーリーヤ広場は「解放」を意味するタハリール広場と改名された。 クーデター後の初代大統領兼首相にはムハンマド・ナギーブが就き、副首相兼内務大臣にはナーセルが就いたが、やがてナーセルが全権を握った。ナーセルはムガンマア(英語版)と呼ばれるソ連風建築の政府庁舎をタハリール広場のそばに建設した。また、広場にはアラブ連盟の本部、ヒルトンホテル、博物館、与党であるアラブ社会主義連合の本部が建設された。オーウェン (2011)は、タハリール広場はナーセル政権の野望を具体化する象徴的な場所となったとしている。 タハリール広場への立ち入りは厳しく監視され、騒動が起こる兆候があればすぐに戦車が出動した。ただし、政権を支持する行進は許可され、ワフド党の指導者であったムスタファ・ナッハース(英語版)のような重要人物の葬儀の行進も行われた。
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