ソフィア (ギリシャ王妃)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/29 00:45 UTC 版)
ソフィア Σοφία | |
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ギリシャ王妃 | |
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在位 |
1913年3月18日 - 1917年6月11日 1920年12月19日 - 1922年9月27日 |
全名 |
一覧参照
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出生 |
1870年6月14日![]() |
死去 |
1932年1月13日(61歳没)![]() |
埋葬 |
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結婚 | 1889年10月27日 アテネ |
配偶者 | コンスタンティノス1世 |
子女 | |
家名 | ホーエンツォレルン家 |
父親 | ドイツ皇帝フリードリヒ3世 |
母親 | ヴィクトリア |
ソフィア・ティス・プロシアス(ギリシア語: Σοφία της Πρωσίας, 1870年6月14日 - 1932年1月13日)は、ギリシャ王コンスタンティノス1世の王妃。ドイツ語名はゾフィー・フォン・プロイセン(ドイツ語: Sophie von Preußen)。
生涯
ドイツ皇太子フリードリヒ(のちの皇帝フリードリヒ3世)とその妃であるヴィクトリア(イギリス女王ヴィクトリアの長女)の三女として、ポツダムで生まれた。兄はドイツ皇帝ヴィルヘルム2世。愛称はソッシー(Sossy)。

1889年10月27日、王太子コンスタンティノスとアテネで結婚した。1913年5月に夫とともに戴冠した。2人は6子をもうけた。
- ゲオルギオス2世(1890年 - 1947年) - ルーマニア王女エリサベータと結婚。
- アレクサンドロス1世(1893年 - 1920年) - アスパシア・マノスと結婚。
- エレーニ(1896年 - 1982年) - ルーマニア王太子カロル妃。ミハイ1世の母。
- パウロス1世(1901年 - 1964年) - ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公女フリーデリケと結婚。
- イリニ(1904年 - 1974年) - 第4代アオスタ公アイモーネ(短期間クロアチア王トミスラヴ2世となった)と結婚。
- エカテリニ(1913年 - 2007年) - リチャード・ブランドラムと結婚。

1916年、国王夫妻がタトイに滞在中、離宮に不審火が起こり、周囲の森林へも延焼した。ソフィアは末子エカテリニを抱いたまま2.4km余りを走って避難した。鎮火まで48時間かかったこの火事は、放火とみられている。
1917年6月、ソフィアは夫と王太子ゲオルギオスと共にギリシャを去った(ドイツの介入で退位した)。一家はスイスで亡命生活を送るが、王位を継いでいた次男アレクサンドロスが1919年に貴賤結婚でギリシャを離れ、その1年後にペットの猿に噛まれて破傷風で急逝したため、再び1920年に復位した。1922年、トルコとの戦争で敗北したのちコンスタンティノスは退位し、同年のうちに没した。
第一次世界大戦中、ソフィアは親ドイツ派であり、母と同じくイギリスびいきでもあった。
ソフィアは晩年に癌を患い、フランクフルトで没した。
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「ソフィア (ギリシャ王妃)」の例文・使い方・用例・文例
- その子は祖母の名をとってソフィアと名付けられた。
- ブルガリアの首都はソフィアである
- 都市の征服後すぐに,メフメト2世はハギア・ソフィア大聖堂をイスラム教のモスク,アヤソフィア・ジャミィに改築した。
- ソフィア・コッポラ監督はこの新しいイメージをとても興味深く感じた。
- それはブルガリアの首都ソフィアの約120キロ南にあるリラ山脈の森の奥深くに位置している。
- 55キロ級の決勝で,吉田選手はスウェーデンのソフィア・マットソン選手に判定勝ちした。
- 「ソフィアはとても強くて,思ったように攻められなかった。決勝はテクニカルフォールで勝ちたかった。」と吉田選手は語った。
- 彼女は女子53キロ級の決勝でスウェーデンのソフィア・マットソン選手を破った。
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