イレーネ・ディ・グレチア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/20 18:04 UTC 版)
イレーネ・ディ・グレチア Irene di Grecia | |
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クロアチア及びスラヴォニア王妃 | |
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在位 | 1941年 - 1943年 |
別称号 |
アオスタ公爵夫人 スポレート公爵夫人 |
出生 |
1904年2月13日![]() |
死去 |
1974年4月15日(70歳没)![]() |
結婚 | 1939年7月1日 サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂 |
配偶者 | クロアチア及びスラヴォニア王トミスラヴ2世 |
子女 | アメデーオ |
家名 | グリュックスブルク家 |
父親 | ギリシャ王コンスタンティノス1世 |
母親 | ソフィア・ティス・プロシアス |

イレーネ・ディ・グレチア・エ・ダニマルカ(イタリア語: Irene di Grecia e Danimarca, 1904年2月13日 - 1974年4月15日)は、イタリア王族・クロアチア及びスラヴォニア王トミスラヴ2世(イタリア語名: アイモーネ)の妃。ギリシア語名はイリニ・ティス・エラザス(Ειρήνη της Ελλάδας)、クロアチア語名はイレナ(Irena)。
生涯
ギリシャ王コンスタンティノス1世とその王妃ソフィアの次女として、アテネで生まれた。ゲオルギオス2世、アレクサンドロス1世、パウロス1世は兄、ルーマニア王ミハイ1世の母后エレナは姉にあたる。
1939年7月、フィレンツェで当時スポレート公であったアイモーネと結婚した。1941年5月、アイモーネがクロアチア独立国国王トミスラヴ2世として即位したことから、イレーネも王妃となった。1943年9月、長男アメデーオが誕生するが、同年10月にイタリア王国が連合国側に降伏したために、母子ともにナチス・ドイツに逮捕された。イレーネと生後間もないアメデーオは、オーストリアの強制収容所へ送られた。その後ポーランドの強制収容所へ送られ、フランス軍に収容所が解放されるまで2人は囚われの身であった。
戦後、イタリアを離れアルゼンチンへ向かったアイモーネに同行せず、フィレンツェに残った。1966年の大洪水の際のイレーネの慈善行為を讃え、トスカーナの首都であるフィレンツェは彼女に名誉市民の称号を贈った。1974年、イレーネはフィエーゾレで没した。遺体はサヴォイア家の霊廟のあるスペルガ聖堂へ運ばれ、夫アイモーネの隣に埋葬された。
固有名詞の分類
王族の妃 |
イッポーリタ・マリーア・スフォルツァ マーガレット・オブ・コノート イレーネ・ディ・グレチア マルガレータ・アヴ・スヴェーリエ マティルデ・イン・バイエルン |
イタリアの王族 |
ウンベルト・ディ・サヴォイア=アオスタ ヴィットーリオ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイア=アオスタ イレーネ・ディ・グレチア マリーア・ヴィットーリア・ダル・ポッツォ・デッラ・チステルナ エレナ・ドルレアンス |
グリュックスブルク家ギリシャ系 |
マリア・ゲオルギエヴナ エリサヴェト・ティス・エラザス イレーネ・ディ・グレチア ミハイル・ティス・エラザス マリア=オリンピア |
ギリシャ王族 |
マリア・ゲオルギエヴナ エリサヴェト・ティス・エラザス イレーネ・ディ・グレチア ソフィア・ティス・エラザス マルガリタ・ティス・エラザス |
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