スパイ熱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/31 10:23 UTC 版)
大谷 (1957, pp. 78-80)は、コックス事件による当初の検挙者数を東京憲兵隊2人、大阪憲兵隊1人の計3人とした上で、コックスらを逮捕した理由について、1940年1月頃から特高課外事班が駐日外国人10数名をスパイ容疑者として偵諜しており、このうち英国人2人について軍事機密事項をスパイしている容疑が固まったために検挙したのであり、特に排英のために英国人を検挙したわけではなく、結果として国内の親独伊派の排英・防諜意識高揚を助長することになっただけだ、としている。 当時の日本国内では事件は「東京憲兵隊が英国の諜報網を弾圧した」として新聞で大きく取り上げられ、国民の防諜思想を喚起し、英国人スパイの国内活動を宣伝することになり、陸軍が推進していた反英・防諜思想の普及に助力する結果となった。7月29日の発表時に、陸軍省の報道官は、日本国民に対して、スパイ活動に惑わされないようにするため、国家や軍の機密事項を話さないようにと呼びかけた。 事件当時の『長崎日日新聞』は、スパイ事件を摘発した警察当局を賞賛し、英国による日本人拘留に怒りを表し、読者に外国人に注意するよう呼びかけていた。
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