スバルとの共同参戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 01:28 UTC 版)
1989年末に富士重工業(スバル)が1億円でチームの株式の半分を買い取り、 1990年はスバル・コローニとしてエントリーを行った。スバルとモトーリ・モデルニが共同開発した水平対向12気筒エンジンを搭載したが、90年開幕戦アメリカGP予選では信頼性の問題もあって1周5分という惨憺たるタイムを記録し、その後も予備予選すら通過できない惨憺たる結果が続いた。結局イギリスGPを以ってスバルと決別し、フォード・コスワースDFRエンジンに切り替えるものの、決勝進出はならなかった(なお、スバル水平対向12気筒エンジンを搭載したマシンがC3B、フォードコスワースDFRV8エンジンを搭載したマシンがC3Cとなる)。 1991年は前年のマシンを改正レギュレーションに合わせたC4で戦うが(ドライバーは前年度のイギリスF3000チャンピオンのペドロ・チャベス)、資金難と脆弱な開発体制から「F3000にもってきても勝てないだろう」と酷評される状況で、予備予選でも最下位の常連になり、一度も予備予選を通過できなかった。シーズン終盤には、日本の若手有望株の一人であった服部尚貴を擁し、さらに日本GPでは一口2万円での個人スポンサーを募った。鈴鹿に現れたマシンには、サイドポンツーン上部に細かく個人スポンサーの名前が並び『耳なし芳一』と揶揄されたが、予備予選を通過できなかった。
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