スティリコの専横と処刑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 14:27 UTC 版)
「ホノリウス」の記事における「スティリコの専横と処刑」の解説
「スティリコ」も参照 ホノリウスは若く、また暗愚でもあったため、政務はヴァンダル族出身の将軍スティリコが行なった。スティリコは各地で反乱の鎮圧やら西ゴート族やヴァンダル族との争いに奔走し、西ローマ帝国を大いに支えた。スティリコは自身の二人の娘をともにホノリウスと結婚させ、皇帝の義理の父ともなった。408年、東方正帝アルカディウスが死亡すると、ホノリウスは新たな東方正帝を任命せずに単独で帝国を支配しようとした。スティリコはホノリウスを戒めて東方副帝であったテオドシウス2世を正帝へと昇格させたが、ホノリウスはスティリコに不満を抱くようになった。スティリコがテオドシウス2世への使者として西ローマ帝国を不在にしている間に、宮廷ではオリュンピウス(英語版)という大臣がホノリウスの信頼を得た。オリュンピウスはホノリウスに、スティリコを排除して実権を取り戻すことを提案し、ホノリウスやホノリウスの異母妹ガッラ・プラキディアも反論はしなかった。東方より帰国したスティリコはラヴェンナで捕らえられた。スティリコは義理の息子でもあるホノリウスを信じて抵抗しなかったが、408年8月22日に将軍ヘラクリアヌス(英語版)によって処刑された。彼の息子エウケリウスは逃亡しようと試みたが、同年中には捕虜となり処刑された。 スティリコの処刑後、オリュンピウスは書記官長の地位を得て一時的に宮廷で権力をふるったが、スティリコを尊敬する将軍コンスタンティウス3世によって412年ごろに処刑された。将軍ヘラクリアヌスも、コンスタンティウス3世からの報復を恐れて412年に反乱を起こしたが、413年には敗れて処刑されている。
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