スキピオ・アエミリアヌスとの関係
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「ガイウス・ラエリウス・サピエンス」の記事における「スキピオ・アエミリアヌスとの関係」の解説
父がスキピオ家と親しかったことから、サピエンスもスキピオ家の養子となっていたプブリウス・コルネリウス・スキピオ・アエミリアヌスとは、幼少の頃から知り合いであったと思われる。スキピオ・アエミリアヌスはサピエンスより数歳年下であった。何れにせよ、紀元前160年代には友人となっていた。アエミリアヌスが亡くなるまで、サピエンスは常に彼の友人であり、同士であった。キケロはサピエンスの口を借りて以下のように述べさせている。 スキピオとの友情に勝る宝はない。そこには国事に関する一致があり、個人的な問題に関する助言があり、さらに安らぎと喜びがあった。私の知る限りでは、どんな些細なことでも彼を怒らせたことはないし、私自身も彼から不愉快な話を聞いたことは一度もない。私たちは一つの家で、一つの食卓で、一つの食べ物を食べていた。ハイキングだけでなく、旅行や村での生活も私たちには共通していた。人から離れて余暇を過ごしていたときでさえも、私達が常に何かを学び、研究していたことをここで語る必要があるだろうか。 キケロ『友情について』、103-104 スキピオ・アエミリアヌスの周りに集まった人々には、ルキウス・フリウス・ピルス、スプリウス・ムンミウス、プブリウス・ルピリウス、をはじめとする若者たちが含まれており、上流階級だけでなく下層階級出身の人物も含まれてた。彼らはギリシア文化への共通の関心と、生涯続いた本当に温かい関係で結ばれてい。この「スキピオ・サークル」内の関係は、個々の人物のの社会的地位に関係なく、完全に非公式なものであった。 スキピオ・アエミリアヌスは、その青年期を通じて、当時のローマのノビレス(上流階級)としては奇妙は生活を送った。ロルム・ロマヌムで演説することも、兵役につくことも、クルスス・ホノルム(名誉のコース)を歩むための官職への立候補もせず、知的研究に専念していた。サピエンスも、この生活をスキピオ・アエミリアヌスと共有した。このような生活は紀元前151年まで続いたが、其の頃には彼らの友人の何人かは、官職に就任して政治の階段を登り始めていた。
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