ジョン・レヴィとの出会い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 05:59 UTC 版)
「ビリー・ホリデイ」の記事における「ジョン・レヴィとの出会い」の解説
出所後にビリーはニューヨークでの労働許可を没収され、ニューヨークのクラブで歌うことを禁止された。唯一の例外は舞台でのコンサートであったが、幾晩も連続して大ホールを聴衆で埋めることは困難だった。加えて、ジョー・グレイザーとその後彼女のマネージャーとなるエド・フィッシュマンとの間でのエージェント戦争にも巻き込まれてしまう。 相次ぐ災難にもかかわらず、彼女はラジオでライオネル・ハンプトンと共演し、ストランド・シアターではカウント・ベイシーとも共演している。この頃から彼女の相手を務めるようになったのは、ジョン・レヴィという二流どころのギャングだった。彼女はまた、良家の出身で一時期マレーネ・ディートリヒとの浮名も流したことのある女優タルラー・バンクヘッドとも関係を結ぶ。 一方で彼女のヘロイン漬けの生活は続き、労働許可の没収により仕事をニューヨーク以外の場所に求めざるを得なくもなっていた。契約条件は不利になり、ギャラも少なくなっていったが、レヴィは彼女の稼ぎをすべて吸い上げた上、彼女を脅すようになる。折も折、彼女はサンフランシスコで麻薬不法所持により逮捕される。これに対して、タルラー・バンクヘッドは自分のコネ、とりわけFBI長官であったエドガー・フーバーとの関係を駆使して彼女の釈放に尽力する。しかし彼女はその後もレヴィの暴力を受け続け、伴奏者であり友人であったボビー・タッカー(英語版、ドイツ語版)は彼女と袂を分かつ。警察は彼女への捜査を続け、1950年のダウン・ビートの9月号には、「ビリー、またも災難」と題した記事が掲載された。 さらに1949年のデッカでの録音の際、ホリデイは自身の歌声のリズムを合わせられなくなるという事態に見舞われ、デッカは1950年の契約更新を行なわなかった。ホリデイは借金で首も回らなくなってしまう。レヴィは彼女の稼ぎをすべて懐に入れ、請求書は一切払おうとしなかった。レヴィと別れたとき、彼女はかなりの金銭を失うことになったが、一方で一定の自由を取り戻すことができた。だがニューヨークで歌うことができなかったホリデイは、長いツアーをこなさなければならなくなる。 1950年末、彼女はシカゴでハイノートの舞台を若き日のマイルス・デイヴィスと分かち合い、再び成功に恵まれる。
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