ジョニー・オーティス
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ジョニー・オーティス | |
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ジョニー・オーティス・ショー(1987年)
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基本情報 | |
原語名 | Johnny Otis |
出生名 | Ioannis Alexandres Veliotes |
生誕 | |
死没 | |
ジャンル | |
担当楽器 | |
活動期間 | 1940年代 - 2000年代 |
レーベル | |
著名な家族 |
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ジョニー・オーティス(1921年12月28日 - 2012年1月17日、出生名:ヤーニス・アレクサンドレス・ヴェリオテス、ギリシャ語:Ιωάννης Αλέξανδρος Βελιώτης)はギリシャ系アメリカ人の歌手、ミュージシャン、作曲家、バンドリーダー、音楽プロデューサー、タレントスカウト、牧師である[1]。
彼はアメリカのR&Bおよびロックンロールに大きな影響を与えた存在であった。彼は後に大きな成功を収めることになったアーティストをまだキャリア初期の段階で多く発掘した。その中にはリトル・エスター・フィリップス、エタ・ジェイムズ、アラン・オデイ[2]、ビッグ・ママ・ソーントン、ジョニー・エイス、ジャッキー・ウィルソン、リトル・ウィリー・ジョン、ハンク・バラード、ザ・ロビンズ、シュガー・パイ・デサントらがいた。オーティスは、「リズム・アンド・ブルースのゴッドファーザー」とも称される[3]。
来歴
私生活
オーティスは、1921年12月28日 、カリフォルニア州ヴァレーホにギリシャ移民の両親の下に生まれた。父親アレクサンダー・J・ヴェリオテスはメア・アイランドの港湾労働者で、食料品店を経営していた。彼の妻アイリーン(旧姓:キスカケス)は画家であった[4]。兄弟には妹のドロシーと弟のニコラス・A・ヴェリオテスがいた。ニコラスは外交官となり、アメリカ合衆国のヨルダン大使(1978年-1981年)、エジプト大使(1984年-1986年)を歴任した。父親が経営していた食料品店はバークリーの黒人が多く住む地域にあり、ジョニーはそこで幼少期を過ごしている。彼は後に自ら進んで公私共にアフリカ系アメリカ人のコミュニティのメンバーとして過ごすようになり、それが彼の存在を知らしめることとなった[5][6][7]。彼は次のように書いている。「人は、黒人か白人かいずれになる必要があると社会が求めるのであれば、僕は黒人になろうと子供の頃に決めたんです」[8]。
オーティスが19歳だった1941年5月2日、彼はオークランド出身のアフリカ系とフィリピン系の18歳の女性、フィリス・ウォーカーと結婚した。彼女は幼い頃からの知り合いであった。彼の母親に強く反対されたものの、2人はカリフォルニアを離れ、当時異人種間の結婚が認められていたネバダ州リノに行き、入籍した[9]。彼らは4人の子供(2人の息子と2人の娘)を設けている。息子のシュギー・オーティスとニコラス・オーティスはいずれもミュージシャンとなった。娘の名前はジャニースとローラであった[10]。ジョニーとフィリスはシュギーの最初の妻ミス・マーシー・フォンテノー(GTOズ)との間に生まれた息子、ラッキー・オーティスも育てている。
キャリア
オーティスは10代の頃、クレジット伝票に父親の署名を偽造してドラムセットを購入し、ドラムスを演奏し始めた。その後間もなく高校三年生のとき、バークリー高校を中退した。彼は、ピアニストの友人"カウント"・オーティス・マシューズと共に地元のバンド、ウェスト・オークランド・ハウス・ロッカーズに加入した[11]。1939年には、彼らはオークランドを中心に、多くの地元のイベントで演奏するようになり、人気を博していた。
1940年代の初頭には、オーティスはロイド・ハンターのセレネイダーズ[12]、ハーラン・レナードのロケッツ[13]などスウィングのオーケストラでプレイするようになっていた。彼は1945年に自分のバンドを結成し、ビッグバンド時代の最も長く続くヒット曲の一つであるアール・ハーゲン作曲の「Harlem Nocturne」を演奏した。ワイノニー・ハリス、チャールズ・ブラウン、イリノイ・ジャケーといった面々が当時の彼のバンドには在籍していた。1947年、彼はミュージシャン/プロモーターのバルドゥ・アリと共同で、ロサンゼルスのワッツ地区にバレルハウス・クラブを開店させた。オーティスは自身のバンドの規模は小さくし、歌手のメル・ウォーカー、リトル・エスター(出生名:エスター・メイ・ジョーンズ、後にエスター・フィリップスの名前で知られることとなった)、ザ・ロビンズ(後にザ・コースターズとなった)をメンバーに迎え入れた[14]。当時まで10代だったエスター・ジョーンズについては、彼女がバレルハウス・クラブで開催されたタレント・ショーで優勝した際に、彼は彼女を知ることになったのだった。このバンドはカリフォルニア・リズム・アンド・ブルース・キャラヴァンの名義でアメリカのツアーに出ており[15]、1950年代を通じて、次々とリズム・アンド・ブルースのヒット曲を生むこととなった。
1947年9月7日、オーティスと彼のオーケストラは、リオン・ヘフリンSr.がプロデュースしたロサンゼルスのリグリー・フィールドを会場とした第3回カヴァルケード・オヴ・ジャズ・コンサートに出演した。同じ日には、ウディ・ハーマン、バルデス・オーケストラ、ザ・ブレンダーズ、T-ボーン・ウォーカー、スリム・ゲイラード、ザ・ハニードリッパーズ、サラ・ヴォーン、スリー・ブレイザーズといった面々も出演している[16]。
オーティスは、彼のアップテンポの楽曲「Barrelhouse Stomp」でプレイしたテナー・サクソフォーン奏者のビッグ・ジェイ・マクニーリーを発掘した。彼は1949年、ニュージャージー州ニューアークを拠点としたサヴォイ・レコードのために、リトル・エスターとメル・ウォーカーのレコーディングをするようになり[13]、「Double Crossing Blues」、「Mistrustin' Blues」、「Cupid Boogie」といった楽曲がいずれもビルボード誌のR&Bチャートの1位を記録するヒット・レコードとなっている。1950年には、ビルボード誌はオーティスを年間最優秀R&Bアーティストに選出している[17]。彼は、この頃自身のレコーディングの多くでヴィブラフォンをプレイするようになった[13]。
1951年、オーティスは「Mambo Boogie」をリリースした。この曲はコンガ、マラカス、クラベス、およびマンボ・サクソフォーンをフィーチャーしたブルース進行のグアヘオ(guajeo)であり、R&Bマンボとしては初めてのレコーディングとなるものであった[18]。オーティスはマーキュリー・レコードに1951年に移籍した。彼は自身が開催したタレント・ショーで当時13歳だったエタ・ジェイムズを発掘している。彼は彼女初のヒット曲「The Wallflower (Dance With Me, Henry)」を共作し、プロデュースした。
1952年のヒューストン滞在中に、オーティスは歌手のビッグ・ママ・ソーントンのオーディションをした。彼は、彼女の1953年のレコーディング「Hound Dog」(この曲のオリジナル・バージョン)をジェリー・リーバーとマイク・ストーラーと共作し、プロデュースとドラムスも担当した。彼とそのバンドは、吠えるバック・ボーカルも入れている[19]。 オーティスは、エルヴィス・プレスリーがこの曲の新バージョンをレコーディングする前に、リーバーとストーラーが契約書を改訂していたことを知り、作者クレジット表記を巡り、彼らと法廷闘争を繰り広げた。プレスリーのバージョンは瞬く間にナンバーワンヒットとなった。オーティスは、この曲を作詞作曲した当時共に17歳だったリーバーとストーラーが元の契約を無効にし、作者として彼ら2名だけをクレジットしたのは違法であるとして訴えた。裁判官は被告側に有利な判決を下し、オーティスとの最初の契約は、署名時に2人が未成年であったため無効であるとの判決を下している。
オーティスが書いた最もよく知られた楽曲の一つはバラードの「Every Beat Of My Heart」であり、1952年にザ・ロイヤルズが最初にレコーディングし、フェデラル・レコードよりリリースした[20][21]。その後1961年にグラディス・ナイト・アンド・ザ・ピップスがレコーディングし、ヒットさせている。オーティスはまた、歌手ジョニー・エイスの楽曲「Pledging My Love」をプロデュースし、ヴィブラフォンをプレイした。この曲はビルボード誌のR&Bチャートの1位を10週維持した。1955年にザ・シークスがフェデラルからリリースした「So Fine」もオーティスにとって成功した楽曲の一つである。この曲は1959年にザ・フィエスタスがカバーしてヒットとなっている。キング・レコードのA&R担当として、オーティスはジャッキー・ウィルソン、ハンク・バラード、リトル・ウィリー・ジョンら後に成功を収める若き有望なアーティストたちを発掘している[13]。オーティスは「ジョニー・オーティス・ショー」との名称のテレビ番組のホストを務め、1955年には、カリフォルニア州ロングビーチのラジオ局KFOXで影響力を持つDJとして活躍した[22]。
1955年、オールミュージック自身のレーベル、アルトラ・レコード(Ultra Records、5つのシングルをリリースした後、レーベル名をディグ Digに改名)を立ち上げた。彼は1957年よりロサンゼルスで演奏活動をこなし、テレビ番組にも出演し続けた。これらの成功から、彼はキャピトル・レコードと契約を締結した。歌手のマリー・アダムズをフィーチャーしたバンド、ジョニー・オーティス・ショーは1957年、「Ma (He's Making Eyes At Me)」で英国チャートに返り咲いた[23]。1958年4月には、彼はクラベスをベースとした一番よく知られた楽曲「Willie And The Hand Jive」をレコーディングしている。この曲は1958年夏に米国のポップ・チャートの9位を記録。オーティスにとって唯一のトップ10入りのヒットとなった。同曲はビルボードR&Bチャートでは1位となっている。この曲で掴んだオーティスの成功は短命に終わり、1961年には彼はキング・レコードに移籍し、そこではジョニー・"ギター"・ワトソンと仕事をしている[13]。
1959年には、オーティスは若きアラン・オデイがボーカルを務めたカリフォルニア州コーアチェラ・バレーのバンド、ザ・ルネーズをオーディションした。彼らに感銘を受けたオーティスはロサンゼルスのエルドラド・スタジオで、このバンドの演奏するオデイのオリジナル3曲といくつかのカバー曲をレコーディングし、プロデュースした。しかしながら、彼らの大半が未成年だったこともあり、これらのレコーディングはリリースされることはなかった[2]。
1960年代後半になると、オーティスは『Cold Shot!』(1968年)と性的に際どい内容を含む『Snatch And The Poontangs』(1969年)の2枚のアルバムを立て続けにリリースした。これらの両方に彼の息子シュギーと歌手のデルマー・"マイティ・マウス"・エヴァンズが参加している[24]。その1年後、彼はバンドのモントレー・ジャズ・フェスティバルでのパフォーマンスを収録した2枚組のアルバム『The Johnny Otis Show Live At Monterey!』をリリース。ここにはリトル・エスター・フィリップス、エディ・"クリーンヘッド"・ヴィンソン、ピー・ウィー・クレイトン、アイヴォリー・ジョー・ハンター、マイティ・フリーなどのアーティストが客演している。このアルバムの演奏の一部はクリント・イーストウッド監督の映画「恐怖のメロディ」で使用されている。
『The Johnny Otis Show Live At Monterey!』はエピック・レコードから1971年にリリースされた。「Christgau's Record Guide: Rock Albums of the Seventies」の中でロバート・クリストガウは次のようにこの作品をレビューしている。「コンサート音源のコンピレーションは支離滅裂なことが多いが、パフォーマーからメジャー・ミュージシャンへと転身したオーティスが愛したブルース・スタイルのハード・ジャイヴは形式的に一貫性があり、このR&Bのスペクタクルは盤の4つの面を通してスムーズに展開する。ギタリストのシュギー・Oをはじめ、フィーチャーされているプレイヤーの中には、オーティスに雇われただけの人物もいる。しかしロイ・ミルトン、ビッグ・ジョー・ターナー、アイヴォリー・ジョー・ハンター、リトル・エスター・フィリップス、ロイ・ブラウン、そしてクリーンヘッド・ヴィンソンは、リチャード・ネーダーがザ・ガーデンに送り込んだどのアーティストよりも優れたキャストだ[25]。
1970年代に入るとオーティスのツアーの頻度は減っている。彼はブルース・スペクトラム・レーベルを立ち上げ、13枚のシリーズのアルバム『Rhythm And Blues Oldies』をリリースした。これは、ルイ・ジョーダン、チャールズ・ブラウン、ビッグ・ジョー・ターナー、ピー・ウィー・クレイトン、ジョー・リギンズ、ゲイトマウス・ムーア、ロイ・ミルトン、エイモス・ミルバーン、エディ・"クリーンヘッド"・ヴィンソン、リチャード・ベリーといった1950年代のR&Bアーティストの楽曲をフィーチャーし、そのうち3枚は自身の作品も収録している。
1980年代には、オーティスはロサンゼルスのラジオ局KPFKで月曜日の午後8時から11時までの週1回の番組を受け持ち、レコードをかけたのを始め、スクリーミン・ジェイ・ホーキンズなどのR&Bアーティストをゲスト出演させた[26]。オーティスはまた息子たち(ギターのシュギー、ドラムスのニッキー)と共にレコーディングを行ない、『The New Johnny Otis Show』(Alligator、1981年)『Johnny Otis! Johnny Otis!』(Hawk Sound、1984年)、『Otisology』(Kent、1986年)とアルバムをリリースしている[13]。1987年の夏には、オーティスはロサンゼルスで「レッド・ビーンズ&ライスR&Bミュージック・フェスティバル」を主宰し、一流の出演者と米国南部スタイルのレッド・ビーンズ&ライスのコンテストをフィーチャーした。オーティスは1992年に『Spirit Of The Black Territory Bands』をリリースし、グラミー賞のノミネーションを受けている[27]。 彼はフェスティバルをサンディマス市に移し、ロサンゼルス郡公園レクリエーション課の協力も取り付け、2006年まで20年間続けた[28]。
オーティスと彼の家族は、その後南カリフォルニアを離れ、カリフォルニア州ソノマ郡のリンゴ農業が営まれる小さな町、セバストポルに移住した。彼は、KPFKの バークリーの姉妹局KPFAに場を移して、毎週土曜日の午前9時から正午までのラジオ番組に出演し続けた。オーティスは1990年代を通じて全米およびヨーロッパへもツアーを続け、1990年と2000年にはサンフランシスコ・ブルース・フェスティバルのヘッドライナーも務めている。1990年にはジョニー・オーティス・ショー名義で来日し、ジャパン・ブルース・カーニバルへ出演している[29]。
1993年には、彼はセバストポルに食料品店/デリ/キャバレーのジョニー・オーティス・マーケットを開店させ[30][31][32][33]、オーティスと彼のバンド(孫のラッキーとエリックがそれぞれベースとリズム・ギターで参加)がここで毎週ソールドアウトのショーを開催した[34]が1995年に閉店となっている[35][36][37]。彼は1994年にロックの殿堂およびブルースの殿堂入りをしている[38]。2017年には、ナショナル・リズム・アンド・ブルースの殿堂にも入った。
その他の活動
1960年代にオーティスはジャーナリズムと政治の世界に足を踏み入れた。彼はカリフォルニア州議会代議院選挙に出馬したものの、落選した。その後、彼は州議会議員で後に民主党の連邦議会下院議員となった、マーヴィン・M・ディマリーの副首席補佐官を務めている[39]。
オーティスはまた、カリフォルニア州サンタローザにニュー・ランドマーク・コミュニティ・ゴスペル教会を設立し[40]、牧師として日曜日の礼拝の説教をした[41]。ランドマーク教会の礼拝は、オーティスの説教と、彼のリズム・セクションとオルガン奏者のバックアップによるボーカル・グループと合唱団の伝統的なスタイルのパフォーマンスが中心となっていた[42]。この教会は1998年半ば頃に閉鎖されている。
ラジオ番組の「ザ・ジョニー・オーティス・ショー」はKPFKからそのバークリーの姉妹局KPFAに移管し土曜日の朝に放送が続いた。1994年に彼の食料品店が開店した後は、オーティスはそこから出演し、バンドと共に生で演奏をした。後にはパワーハウス・ブリューイング社からの放送もした[43]。2004年後半にオーティスが引退した後は、孫のラッキーがラジオ番組のホストを引き継ぎ、2006年後半の最後の放送までの2年間に渡り放送が続いた。その後オーティスと妻はロサンゼルスに戻っている[44]。
1980年、フランク・ザッパはトラウザー・プレスによるインタビューの中で、彼のトレードマークとなった口髭と顎鬚について「ブルースマンのジョニー・オーティスの髭がカッコよかったから自分も伸ばしたんだ」と語っている[45]。
オーティスは、カリフォルニア州オークランドのペラルタ・コミュニティ・カレッジ・ディストリクトの教室で「アメリカ文化の中のジャズ、ブルースおよびポピュラー音楽」というテーマで音楽を教えていた[46]。
死去
2012年1月17日、オーティスはロサンゼルスのアルタディーナ地区で死去した。90歳であった。死因は自然死とされている。彼の死は、彼が1950年代初頭に発掘したエタ・ジェイムズの死去の3日前のことであった[1]。彼は妻と共にアルタディーナのマウンテンヴュー墓地に埋葬されている[47]。
ディスコグラフィー
アルバム
年 | アルバム名 | レーベル | 備考 |
---|---|---|---|
1957 | 『Rock 'N Roll Hit Parade Volume 1』 | Dig | |
1968 | 『Cold Shot!』 | Kent | The Johnny Otis Show Featuring Mighty Mouth Evans & Shuggie Otis名義 |
1969 | 『Snatch And The Poontangs』 | Kent | Snatch And The Poontangs名義 |
1970 | 『Cuttin' Up』 | Epic | The Johnny Otis Show名義 |
1970 | 『The Johnny Otis Show Live At Monterey!』 | Epic | The Johnny Otis Show名義 |
1970 | 『That Ain't My Finger』 | Laff | Johnny Otis Show, Live! Featuring Mantan Moreland & Livingood名義 |
1970 | 『That's My Wife!』 | Laff | The Johnny Otis Show, Live!, Potts & Panzy With Dollface名義 |
1970 | 『Stone Down Blues』 | Kent | Guitar Slim Green With Johnny And Shuggie Otis名義 |
1971 | 『The Goodly Soul』 | Laff | Skillet & Leroy, The Johnny Otis Show, Live!名義 |
1972 | 『Big Dead Dick』 | Laff | Skillet & Leroy, The Johnny Otis Show名義 |
1972 | 『The Burglar In The Bedroom』 | Laff | The Johnny Otis Show, Live! Featuring Skillet & Leroy名義 |
1973 | 『Great Rhythm & Blues Oldies Volume 3 - Johnny Otis』 | Blues Spectrum | |
1977 | 『Great Rhythm & Blues Oldies Volume 8 - Johnny Otis』 | Blues Spectrum | |
1977 | 『Great Rhythm & Blues Oldies Volume 13 - Johnny Otis』 | Blues Spectrum | |
1981 | 『The New Johnny Otis Show With Shuggie Otis』 | Alligator | |
1984 | 『Johnny Otis! Johnny Otis!: The 1984 Johnny Otis Show』 | Hawk Sound | |
1984 | 『Otisology』 | Kent | |
1990 | 『Good Lovin' Blues』 | Ace | The Johnny Otis Show名義 |
1995 | 『Great Rhythm & Blues』 | Fat Boy | Johnny Otis, Delmar "Mighty Mouth" Evans名義 |
1997 | 『R&B Dance Party』 | J&T | |
1998 | 『Blues And Swing Party Volume One』 | J&T |
チャート入りしたシングル
年 | シングル | アーティスト | レーベル | 最高位 | ||
---|---|---|---|---|---|---|
米ポップ[50] | 米R&B[17] | 英シングル[51] | ||||
1948 | 「That's Your Last Boogie」 | Joe Swift With Johnny Otis & His Orchestra | Exclusive | – | 10 | – |
1950 | 「Double Crossing Blues」 | Johnny Otis Quintette, The Robins And Little Esther | Savoy | – | 1 | – |
「Mistrustin' Blues」 / 「Misery」 |
Little Esther And Mel Walker With The Johnny Otis Orchestra / Little Esther With The Johnny Otis Orchestra |
Savoy | - - |
1 9 |
- - |
|
「Cry Baby」 | The Johnny Otis Orchestra, Mel Walker And The Bluenotes | Regent | – | 6 | – | |
「Cupid's Boogie」 | Little Esther And Mel Walker With The Johnny Otis Orchestra | Savoy | – | 1 | – | |
「Deceivin' Blues」 | Little Esther And Mel Walker With The Johnny Otis Orchestra | Savoy | – | 4 | – | |
「Dreamin' Blues」 | Mel Walker With The Johnny Otis Orchestra | Regent | – | 8 | – | |
「Wedding Boogie」 / 「Far Away Blues (Xmas Blues)」 |
Johnny Otis' Congregation: Little Esther, Mel Walker, Lee Graves / The Johnny Otis Orchestra With Little Esther And Mel Walker |
Savoy | - - |
6 6 |
- - |
|
「Rockin' Blues」 | The Johnny Otis Orchestra With Mel Walker | Savoy | – | 2 | – | |
1951 | 「Gee Baby」 / 「Mambo Boogie」 |
The Johnny Otis Orchestra | Savoy | - - |
2 4 |
- - |
「All Nite Long」 | The Johnny Otis Orchestra | Savoy | – | 6 | – | |
1952 | 「Sunset To Dawn」 | Mel Walker With The Johnny Otis Orchestra | Savoy | – | 10 | – |
「Call Operator 210」 | Johnny Otis And His Orchestra Featuring Mel Walker | Mercury | – | 4 | – | |
1957 | 「Ma (He's Making Eyes At Me)」 | The Johnny Otis Show (Johnny Otis And His Orchestra With Marie Adams And The Three Tons Of Joy) | Capitol | – | – | 2 |
1958 | 「Bye Bye Baby」 | The Johnny Otis Show (vocal by Marie Adams & Johnny Otis) | Capitol | – | – | 20 |
「Willie And The Hand Jive」 | The Johnny Otis Show | Capitol | 9 | 1 | – | |
「Crazy Country Hop」 | The Johnny Otis Show | Capitol | 87 | – | – | |
1959 | 「Castin' My Spell」 | The Johnny Otis Show (vocal by Johnny Otis & Marci Lee) | Capitol | 52 | – | – |
1960 | 「Mumblin' Mosie」 | The Johnny Otis Show | Capitol | 80 | – | – |
1969 | 「Country Girl」 | The Johnny Otis Show (vocal by Delmar Evans & Johnny Otis) | Capitol | – | 29 | – |
脚注
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- ^ a b Marian Linna (2005). Liner Notes of "Wild Guitar" CD. Norton Records
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- ^ “Fifteenth Census of the United States (1930), Berkeley (Health District 2), Alameda County, California, Enumeration District 1–280, p. 16A, lines 1–6, household of Alex J. Veliotes”. The Generations Network (1930年4月10日). 2009年11月23日閲覧。
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- ^ Joel Whitburn (2003). Top Pop Singles 1955–2002. Menomonee Falls, Wisconsin: Record Research Inc.. p. 529. ISBN 0-89820-155-1
- ^ Graham Betts (2004). Complete UK Hit Singles 1952–2004. London: Collins. p. 577. ISBN 0-00-717931-6
外部リンク
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