ジゲケン・アガ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/05 10:00 UTC 版)
ジゲケン・アガ(J̌igeken aγa、生没年不詳)は、16世紀半ばのホイト部首領のスタイ・ミンガトの妻。アルタン・ハーンの攻撃を受けてスタイ・ミンガトが死去した後、アルタン・ハーンに降ったことで知られる。ジゲヘン・アガとも。
出身
ジゲケン・アガの出身について、『アルタン・ハーン伝』は「キルグド・ウルス(kirγud ulus)」の人物であったと伝えている[1]。「キルグド(kirγud)」は北元時代前半に活動した「ケレヌード(kerenügüd)」と同一集団とみられ、15世紀にはケレヌードの首領とされるオゲチ・ハシハ、エセク父子の活躍がモンゴル年代記中で特筆されている。ジゲケン・アガはこのケレヌード王家の出で、オゲチ・ハシハの子孫ではないかと推定される[2]。
一方、明朝の側では15世紀初頭にオイラトの三人の有力な首領(マフムード、エセク、バト・ボロト)にそれぞれ順寧王・賢義王・安楽王の王位を授けており、賢義王家がケレヌート部の支配者、安楽王がホイト部の支配者と考えられている[2]。15世紀半ばには順寧王家のエセンが強大な勢力を築いたが、エセンの死後に順寧王家が没落し、入れ替わるように台頭した安楽王家の子孫のスタイ・ミンガトであった。スタイ・ミンガトは賢義王家のジゲケン・アガと婚姻を結ぶことでより権勢を強め、オイラト内での覇権を確立したものとみられる[2]。
事績
『アルタン・ハーン伝』によると、午年(1558年)に西方に出征したアルタン・ハーンはジャラマン山に至り、ジャラマン・トルイ(=スタイ・ミンガト)とジゲケン・アガ夫妻に使者を派遣して婚姻を結ぶことを提案した。この時アルタン・ハーンに差し出されたのが、漢文史料側でも「三娘子」として広く知られたオヤンチュ・ジュンゲン・ハトンであったという[3]。
さらにその後、黄色い辰年(1568年)にアルタン・ハーンは再びオイラトに出征し、この時ジゲケン・アガとその息子たちを降らせた[4]。ジゲケン・アガとその息子たちがアルタン・ハーンに降った事は、『蒙古源流』『アルタン・トプチ』といった諸モンゴル年代記で特筆されており、当時広く知られた事件であったようである。
また、オイラト内での伝承には、「ホイト部の始祖ヤバガン・メルゲンは天を逐われた天女(Tänggrin)と結婚したが、ある時天女はヨボゴン・メルゲンが出征している間にボー・ハーンと密通し、天女とボー・ハーンの間に生まれたオーリンダ・ブドゥンよりチョロース部が生じた」との逸話がある[5]。李志遠はヤバガン・メルゲンがスタイ・ミンガトと同一人物であることを論じた上で、この逸話は「ヤバガン・メルゲンの死後、その遺志を裏切る形でジゲケン・アガがアルタン・ハーンに降った」という史実から生じたものではないかと推測している[6]。
脚注
- ^ 吉田 1998, p. 134/291.
- ^ a b c 李 2018, p. 72.
- ^ 吉田 1998, p. 133/290.
- ^ 吉田 1998, p. 吉田134-135/2.
- ^ 岡田 2010, p. 378.
- ^ 李 2018, p. 73.
参考文献
- 岡田英弘訳注『蒙古源流』刀水書房、2004年
- 岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』藤原書店、2010年
- 森川哲雄『モンゴル年代記』白帝社、2007年
- 和田清『東亜史研究(蒙古篇)』東洋文庫、1959年
- 李志遠『従斡亦剌到輝特——十五至十六世紀忽都合別乞家族及属部研究』、2018年
- 宝音徳力根Buyandelger「15世紀中葉前的北元可汗世系及政局」『蒙古史研究』第6輯、2000年
- ジゲケン・アガのページへのリンク