ジェームス・ハントとニキ・ラウダのライバル関係とは? わかりやすく解説

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ジェームス・ハントとニキ・ラウダのライバル関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/29 16:27 UTC 版)

ジェームス・ハントとニキ・ラウダのライバル関係(ジェームスハントとニキラウダのライバルかんけい)は、イギリス人ジェームス・ハントと、オーストリア人ニキ・ラウダという、二人のフォーミュラ1(F1)ドライバーの間で1973年から1979年にかけて続いた、F1におけるライバル関係について扱う。


注釈

  1. ^ 生涯に関係のあった女性は5,000人に及んだとも[W 3]、1日に40本の煙草を吸っていたとも[W 2]、言われている。煙草については、過酷なトレーニングをするようになってからも止める気がなく、「2時間もスカッシュをしたら、煙草の毒素はすべて排出される」という持論で正当化していた[3]
  2. ^ ラウダのあだ名は、F1デビューの頃には「ラット」、1976年の事故後は(頭髪を失ったことと顔つきから)「スネーク」へと変化していった[4]1977年ベルギーGP英語版デビッド・パーレイと口論になり、その際に「ラット」と罵られたことで、以降は自身のヘルメットに「SUPER RAT」(スーパーラット)と好んで書くようになった[5]
  3. ^ 第2戦南アフリカと第3戦アメリカ西GPの間に開催[11]。この非選手権レースの直前の週末にラウダは人知れず(最初の)結婚をし[11]、ハントはアメリカ西GP前の時期に(最初の)離婚をしている[12]。312T2は世界選手権レースでは5月初めの第4戦スペインGPから投入された。
  4. ^ このスウェーデンGP終了時点では、独走するフェラーリに対抗できるチームがあるとすれば、同GPで初優勝(1-2フィニッシュ)を達成した特異な六輪車「P34」を擁するティレルだと考えられていた[14]
  5. ^ トラクターの事故で肋骨を折り、以降の数戦は痛み止めの注射を打って参戦した[12]
  6. ^ このレースから新しい車両規則が施行され、インダクションポッドの高さが制限されるなど、車体各部の寸法の規定が変更されており[13]、マクラーレンやリジェがこの新規定を満たしていないということで失格になった(後にいずれも失格取消となりリザルトが復活する)。
  7. ^ ラウダは、マクラーレンなどに対するこの裁定結果には「マシンは規定通りか、規定に違反しているかのいずれかだ」と不満を示した[10]エンツォ・フェラーリもまた、レギュレーションに合致した車を用意したフェラーリのポイントが減算され、違反していたマクラーレンのポイントが認められたことは腹に据えかね、このことは尾を引き、イギリスGPの一件がこじれる一因となる[15]
  8. ^ 予定されていた76周のレースを最初からやり直す(ただしTカーの使用は認めない)ということになった[18]。フェラーリはマクラーレンの違反とハントを再スタートに加えるべきではないことを重ねて主張したが、スチュワードはこれを却下した[10]。最初のスタートで車両を破損したフェラーリのレガツォーニとリジェのジャック・ラフィットはTカーのままグリッドに並んでいたが、彼らもうやむやの内に再スタートが許可された[19][18]
  9. ^ イングランドのドライバーによるイギリスGP優勝は1958年イギリスGPピーター・コリンズ以来、18年ぶりのことだった[19]。この「優勝」は取り消されるが、翌1977年にハントはイギリスGPを制し、イングランド出身ドライバーとしては「19年ぶり」のイギリスGP優勝を果たした。
  10. ^ 最初にコース脇の岩壁にクラッシュした時にヘルメットが脱げ、これが頭部に重度の火傷を負う原因となった[20][21]。この事故について、車両の焼損が激しかったため、原因は定かではないものの[22][23]、事故時の映像から足回りに何らかのトラブルがあったと考えられている[9]。ラウダ本人は、「タイヤのトラブル」[22]あるいは「リアサスペンションのボールジョイントの破損」[23]ではないだろうかと語り、フェラーリのチーフメカニックは「左後輪のサスペンショントラブル」だろうと述べている[22]
  11. ^ フェラーリ(エンツォ・フェラーリ)としては、規則違反の車両による優勝を認めたスペインGPの裁定についても納得はしておらず、加えてイギリスGPのこの裁定まで受け入れることは承服できなかった[15]
  12. ^ 決勝直前に行われた車検で、燃料のオクタン価が規定値よりも高いことが発覚した[27][28]。この件は、主催者が地元フェラーリへの援護を狙ったものだとも[29]、フェラーリの策謀だとも[30]、言われている。後者の説については、レースの1週間前の時点でイタリアの新聞がマクラーレンが違反燃料を使用していると書き立てたことが検査が行われた契機になっており[29]、他のケースのようにフェラーリ(フィアット)がそうした記事を新聞に書かせた可能性があるというものである。
  13. ^ 9月24日に開かれたFIA審査会で1日かけて審議され、この時にスペインGPの一件も蒸し返され、再々審議が行われた(こちらはハント優勝という結論は変わっていない)[18]
  14. ^ この不振について、ラウダは312T2が不調だったことを理由に挙げており、自身の入院中に開発が迷走していたのだろうと感じたと述べている[W 1]
  15. ^ なお、ハントは1974年11月に富士GC内で行われたF1によるデモ走行イベントに参加したドライバーの一人で、このサーキットでF1車両(へスケス)を走らせたことはあった。
  16. ^ この日の日没時間は午後5時前だったため、時間的制約があった[32]。ハントはこの時の雨のレースに乗り気ではなく、レース前にラウダのもとを訪れ、「バーニー・エクレストンとの約束があって、開催しないわけにはいかないらしい」と不平を漏らしている[33]。エクレストンは「もしレースを中止するにしても、デモ走行だけでもしたらどうか」と提案したと言われている(大雨の中で走ることに変わりはないためこの提案はドライバーたちからの不評を買った)[20]
  17. ^ このリタイアについて、ハントはレースを完走できないだろうという計算をラウダが働かせていたとしばしば言われているが、ラウダ本人はそうした思惑があったことについて否定している[W 1]
  18. ^ ラウダはハントが乗っていたマクラーレン・M23は、自身の312T2ほど戦闘力は高くなかったと考えており、その点にも敬意を払うと述べている[W 1]
  19. ^ ドイツGPにおける事故後、フェラーリが自分の様子を見ようともせず、カルロス・ロイテマンとすぐに契約したことをラウダは忘れていなかった[35](フェラーリが代役を起用したのは客観的には当然のことだとみなされているが[9][33]、義理堅いラウダにとってこれは許せない行為だった[35])。ラウダは離脱の意思をエンツォ・フェラーリに直接伝え、エンツォを激怒させたが、その交渉からの帰路のラウダは終始上機嫌だったという[35]
  20. ^ シーズン最終盤のアメリカGPでも、互いの部屋がつながったコネクティングルームに宿泊するほどだった[10]。シーズン終了後も、ラウダはハントの「チャンピオン獲得賞賛ミーティング」に出席し、ハントはウィーンで開催された「ニキ・ラウダ・レーシングカーショー」に出席している[37]
  21. ^ この変更については、もし実際の関係に忠実に(ハントとラウダを親しい友人として)作っていたら退屈な映画になっていたのではないだろうかとも言われている[W 3]
  22. ^ 1970年9月のレースにはどちらも出ていない。10月のレースにはハントのみ出場している。また、ハントが所属しているヘスケス・レーシングが設立されたのは1972年なので、この年の時点では存在しない。
  23. ^ 上述したように、1971年のブランズハッチで最初に同じレースで競ったとされる[W 1]
  24. ^ この措置には、このレースから新しい車両規則が施行されたことが関係している。このレースから「312T2」を投入したフェラーリのように新規定への対応に万全を期したチームと、そうではないチームがあった。マクラーレン(M23)以外に、リジェJS5)も寸法が新規定に違反しているということで失格になっている(後に失格取消)。
  25. ^ この時の乗り物は(ヘリではなく)銀色のロールス・ロイスだったと言われている[20]

出典

  1. ^ a b c d e オートスポーツ 1976年8/15号(No.199)、「ドライバーズプロファイル4 ジェームス・ハント」(折口透) pp.113–114
  2. ^ a b c GP Car Story Special Edition NIKI LAUDA、「ライバルなんていない」 pp.26–27
  3. ^ a b c RacingOn Archives Vol.09、「ジェームス・ハント 自由奔放に駆け抜けたレーシングライフ」(マイク・ドットソン) pp.62–67 ※初出はNo.455 pp.64–69
  4. ^ F1速報プラス Vol.35 LAUDA vs HUNT(2014)、「[REAL CHARACTER] ニキ・ラウダ」 pp.54–55
  5. ^ GP Car Story Special Edition NIKI LAUDA、p.7
  6. ^ a b c d e オートスポーツ 1976年8/15号(No.199)、「ドライバーズプロファイル1 ニキ・ラウダ」(折口透) pp.97–99
  7. ^ a b c GP Car Story Special Edition NIKI LAUDA、「監督として 経営者として 友人として」(ルカ・ディ・モンテゼーモロ インタビュー) pp.44–47
  8. ^ F1速報プラス Vol.35 LAUDA vs HUNT(2014)、p.109
  9. ^ a b c d e f GP Car Story Special Edition NIKI LAUDA、「ニキ・ラウダ激闘史 第2章 1974-1977」(林信次) pp.28–31
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v RacingOn Archives Vol.09、「1976 一騎打ちの果てに。」(アラン・ヘンリー) pp.68–73 ※初出はNo.455 pp.70–75
  11. ^ a b オートスポーツ 別冊 F-1世界選手権 in Japan(No.208)、「混沌たる76年チャンピオンの行方」(Maurice Hamilton) pp.49–64中のp.53
  12. ^ a b オートスポーツ 別冊 F-1世界選手権 in Japan(No.208)、「混沌たる76年チャンピオンの行方」(Maurice Hamilton) pp.49–64中のp.54
  13. ^ a b c d e f g h i j k l Racing On No.487、「フェラーリとライバルたちの6シーズン」(Kensuke Ozawa) - 「Chapter2: 1976-1977」 pp.68–81中のpp.71–75
  14. ^ オートスポーツ 1976年8/15号(No.199)、「REFLECTIONS on THE SWEDISH GRAND PRIX」(ダグ・ナイ) pp.102–103
  15. ^ a b c d e f g h オートスポーツ 1976年10/15号(No.204)、「フェラーリ撤退、そして復帰──そのいきさつ」(ダグ・ナイ) pp.71–73
  16. ^ a b オートスポーツ 1976年7/1号(No.196)、「ハント失格、勝利は再びラウダの頭上に!」(Jeff Huntchinson) pp.17–23
  17. ^ a b c オートスポーツ 1976年9/1号(No.200)、「ハントが2日間で“18ポイント”獲得の離れ技!?」(Jeff Huntchinson) pp.24–30
  18. ^ a b c d e f g h i オートスポーツ 1976年12/1号(No.207)、「J.ハント、イギリス・グランプリは失格」(ダグ・ナイ) pp.73–75
  19. ^ a b c d e f g h i オートスポーツ 1976年10/1号(No.202)、「グランプリインサイド2 イギリス・グランプリの波紋 ハントの優勝にフェラーリが「まった」」(ダグ・ナイ) pp.58–60
  20. ^ a b c d e 日本の名レース百選 Volume 001 '76 F1イン・ジャパン、「今だからこそ語ろう 30年目の真実 / ニキ・ラウダ」(文・ヘルムート・ツヴィックル) pp.24–29
  21. ^ a b GP Car Story Special Edition NIKI LAUDA、「30年続いたぎくしゃくした関係」(アルトゥーロ・メルツァリオ インタビュー) pp.36–39
  22. ^ a b c d e F1速報プラス Vol.35 LAUDA vs HUNT(2014)、「一片の迷いなきあの決断」(ニキ・ラウダ インタビュー) pp.56–59
  23. ^ a b Racing On No.487、「ニキ・ラウダ、かつての愛機を語る」 pp.32–36
  24. ^ オートスポーツ 1976年11/1号(No.205)、「REFLECTIONS on the DUTCH GRAND PRIX」(ダグ・ナイ) pp.60–62
  25. ^ オートスポーツ 1976年10/15号(No.204)、「フェラーリ、グランプリに復帰」 p.73
  26. ^ オートスポーツ 1976年11/15号(No.206)、「REFLECTIONS on THE ITALIAN GRAND PRIX」(ダグ・ナイ) pp.27–28
  27. ^ a b オートスポーツ 1976年11/1号(No.205)、「速報イタリア・グランプリ」 pp.26–27
  28. ^ オートスポーツ 1976年11/15号(No.206)、「イタリア・グランプリ ピーターソン、2年ぶりの快挙」(Jeff Huntchinson) pp.21–26
  29. ^ a b オートスポーツ 1976年12/1号(No.207)、「REFLECTIONS on THE ITALIAN GRAND PRIX 2」(ダグ・ナイ) pp.78–79
  30. ^ a b F1速報プラス Vol.35 LAUDA vs HUNT(2014)、p.110
  31. ^ オートスポーツ 1976年11/15号(No.206)、「速報カナダ・グランプリ」 p.84
  32. ^ a b オートスポーツ 別冊 F-1世界選手権 in Japan(No.208)、p.21
  33. ^ a b GP Car Story Special Edition NIKI LAUDA、「選手権よりもニキの命。」(ダニエル・オーデット インタビュー) pp.42–43
  34. ^ a b c d RacingOn Archives Vol.09、「ニキ・ラウダ インタビュー」 pp.26–35 ※初出はNo.455 pp.28–37
  35. ^ a b c GP Car Story Special Edition NIKI LAUDA、「唯一無二のカリスマ性」(ヘルムート・マルコ インタビュー) pp.22–25
  36. ^ a b F1速報プラス Vol.35 LAUDA vs HUNT(2014)、p.107
  37. ^ オートスポーツ 1976年12/15号(No.209)、「ラウダ、マクラーレンをドライブ?」 p.82
  38. ^ F1速報プラス Vol.35 LAUDA vs HUNT(2014)、「インタビュー ピーター・モーガン(脚本)」 pp.38–39
  39. ^ a b c d F1速報プラス Vol.35 LAUDA vs HUNT(2014)、「インタビュー ダニエル・ブリュール(ラウダ役)」 pp.36–37
  40. ^ GP Car Story Special Edition NIKI LAUDA、「銀幕で知るラウダ」 pp.48–49
  41. ^ オートスポーツ 1976年7/1号(No.196)、「マクラーレン失格の裏のウラ」(ダグ・ナイ) pp.41–43
  1. ^ a b c d e f g h i j k l Alan Henry (1998年1月). “Niki Lauda remembers James Hunt: 'One hell of a guy'” (英語). Motor Sport Magazine. 2023年12月21日閲覧。
  2. ^ a b c d Gerald Donaldson (2022年). “Hall of Fame - James Hunt” (英語). Formula One official website. 2023年12月21日閲覧。
  3. ^ a b c Alex von Tunzelmann (2013年9月18日). “Rush: a thrilling but untrusty ride” (英語). The Guardian. 2023年12月21日閲覧。
  4. ^ a b c Greg Stuart (2018年6月15日). “5 reasons James Hunt remains an F1 icon” (英語). Formula One official website. 2023年12月21日閲覧。
  5. ^ a b Gerald Donaldson (2022年). “Hall of Fame - Niki Lauda” (英語). Formula One official website. 2023年12月21日閲覧。
  6. ^ a b c d e f James Elson (2020年7月18日). “James Hunt's brilliant win that never was: the 1976 British GP” (英語). Motor Sport Magazine. 2023年12月21日閲覧。
  7. ^ a b Nigel Roebuck (2016年9月23日). “9 – 1976 Japanese GP” (英語). Motor Sport Magazine. 2023年12月21日閲覧。
  8. ^ When Niki Lauda met Freddie Hunt - 最初の出会いについて (英語). Formula 1. 21 July 2015. 該当時間: 00:24. 2023年12月21日閲覧


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