シャーフーの即位とムガル帝国の混乱
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「マラーター王国」の記事における「シャーフーの即位とムガル帝国の混乱」の解説
1707年3月、皇帝アウラングゼーブは死亡し、5月に帝国軍がデカン地方から撤退した。シャーフーはこれにより解放され、マラーター王位を主張し、サーターラーへと向かった。シヴァージー2世の母ターラー・バーイーはこれに反対し、同年10月に両者の間でケードの戦いが勃発し、シャーフーがこれに勝利した。 1708年1月、シャーフーはマラーター王として即位し、同時にシヴァージー2世は廃位された。なお、この年がマラーター王国を中心としたマラーター同盟の成立年とする場合があるが、同盟が形成されるのはもう少し後の話である。 1713年、シャーフーの即位に尽力した側近のバラモン・バーラージー・ヴィシュヴァナートが王国の宰相となった。バーラージーはアウラングゼーンの死後に衰退したムガル帝国に目を付けた。 1718年7月、バーラージー・ヴィシュヴァナートとデカン地方の総督フサイン・アリー・ハーンは、ムガル・マラーター間で次のような協定を結んだ。協定はマラーターの側にデカン6州のチャウタとサルデーシュムキーの徴収権を与え、その代りにデカンにおける反乱に歯止めをかけることが条件とされた。 1719年2月、バーラージーはデリーでサイイド兄弟が皇帝ファッルフシヤルを廃位し、新たな皇帝ラフィー・ウッダラジャートを擁立するのに加担した。このとき、彼は新たな皇帝から先の協定の認可を受けるとともに、弱体化した帝国を見て北インドを侵略しようと考えるようになった。
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