シャトー=ティエリの戦い_(1814年)とは? わかりやすく解説

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シャトー=ティエリの戦い (1814年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/17 14:08 UTC 版)

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シャトー=ティエリの戦い

シャトー=ティエリ、2004年撮影。
戦争第六次対仏大同盟
年月日1814年2月12日
場所フランス帝国シャトー=ティエリ
結果:フランスの勝利
交戦勢力
フランス第一帝政 プロイセン王国
ロシア帝国
指導者・指揮官
ナポレオン・ボナパルト
ミシェル・ネイ
ルートヴィヒ・ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク
ファビアン・ゴットリープ・フォン・デア・オステン=ザッケン英語版
戦力
20,000人 30,000人
損害
600人 2,750人
大砲9門
ほか軍用行李を失う
Template:Campaignbox 第六次対仏大同盟

シャトー=ティエリの戦い(シャトー=ティエリのたたかい、フランス語: Bataille de Château-Thierry)は第六次対仏大同盟戦争中の1814年2月12日ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル元帥率いるシュレージエン軍(ロシアとプロイセンの連合軍)後衛とフランス皇帝ナポレオン1世率いるフランス軍の間の戦闘。フランスが勝利した。

背景

ナポレオン・ボナパルト六日間の戦役と呼ばれた戦役の最中に一連の戦術的勝利をした後、プロイセン軍にとどめを刺して第六次対仏大同盟から脱落させようとした[1]。前日にはモンミライユの戦い英語版ルートヴィヒ・ヨルク・フォン・ヴァルテンブルクファビアン・ゴットリープ・フォン・デア・オステン=ザッケン英語版を撃破しており、今度はマルヌ川岸のシャトー=ティエリでヴァルテンブルク将軍率いるプロイセン軍後衛を捕捉した[1]

戦闘

ナポレオンはフランス元帥ミシェル・ネイに命じて攻撃させ、ヴァルテンブルクの軍勢に大損害を与えた。しかし、プロイセン軍は幸運にもちょうどいい位置に置かれた自軍の大砲に救われ、ヴァルテンブルクは潰走せず規律を保ったまま撤退することができた。プロイセン軍の損害は1,250人で、ロシア軍の損害は1,500人、フランス軍の損害は600人だった。フランスは大砲9門と多くの軍用行李を鹵獲した[1]

脚注

  1. ^ a b c Chandler 1999, pp. 90–91.

参考文献

  • Chandler, D. (1999) (英語). Dictionary of the Napoleonic wars. Wordsworth editions. ISBN 1-84022-203-4. 

関連図書

  • Ashby, Ralph (2010) (英語). Napoleon against Great Odds: The Emperor and the Defenders of France, 1814. Santa Barbara, California: Praeger. ISBN 0-313-38190-9. OCLC 795454355. 

外部リンク

座標: 北緯49度02分24秒 東経3度24分00秒 / 北緯49.0400度 東経3.4000度 / 49.0400; 3.4000




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