シビル・ハン国攻略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 09:52 UTC 版)
詳細は「シビル・ハン国攻略(英語版)」を参照 ストロガノフ家は、イェルマークらに金銭や軍需品などを与えた。シベリア史家バフルーシンによると、イェルマークらの遠征隊は「本質において、ストロガノフ家がその私的利益のために組織した企業であった」 1579年または1581年9月に、イェルマークの軍勢540人は東進を開始した。チュソワヤ川から、ウラルを越えて、タギル川、トゥーラ川、トボル川、イルティシ川を経て、シビル・ハン国の首都カシリク(イスケルという説もある。)を攻撃した。当時のシビル・ハン国の支配者はクチュム・ハーンである。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}カザク兵は敵の鹿柴(ろくさい)に向かってばく進し、八方から押し寄せてくるタタール兵と熾烈な戦闘を開始した。先頭にはエルマクとイワン・コリツォがカザクの将軍団を指揮して、しばらく剣と槍を縦横に振りかざして緊密な体制を保ちながら、さらに絶え間なく火打銃を発射し、吶喊(とっかん)の声をあげて進撃した。この白熱戦において敵将マフメット・クル(クチュム・ハーンの甥)は銃傷を受け、やむなく後方イルティシ河岸に運び去られたので、その後の統帥を失った敵兵は、まもなく算を乱して逃散してしまった。 —サドコーニフ『シベリア征服史』 この、シビル・ハン国の首都カシリク近郊のイルティシ川のチュヴァシ岬(ロシア語版)で起きた戦い(チュヴァシ岬の戦い(英語版))で、イェルマークは勝利してカシリクを占領した。シビル・ハン国のクチュム・ハーンらは首都を放棄して草原へ逃げた。
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