サンサブルと英仏士官のその後
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「1798年6月27日の海戦」の記事における「サンサブルと英仏士官のその後」の解説
ジャーヴィスはフリゲートの数が払底しているのに悩んでおり、タホ川に「サンサブル」が送り届けられた時、この艦をただちにイギリス艦「センシブル」として任務を与え、自分の艦隊から1隻につき6人の乗員を引き抜いて、わずか半日の間に、軍艦として就役させた。それから1年間、「センシブル」はジャーヴィスのもとで任務につき、1799年11月にイギリスに戻った。イギリスに到着したこの艦は、戦地勤務から格下げされたものの、1802年3月3日にセイロン島沖で難破するまでは、数年間イギリス海軍の輸送艦として就役したのである。 この艦から移された財宝の中には、17世紀にオスマン帝国から押収した、真鍮の、装飾を施した大砲があった。これは銀に金メッキをしたガレー船の模型同様、ルイ14世からエルサレムの聖ヨハネ騎士団に寄贈されたものだった。これらの財宝は、他の品物や艦の備品共々、シアネス(英語版)で1799年11月に売却され、賞金はその後「シーホース」の乗員に与えられて分配された。 ディリエ将軍とその他の捕虜たちはイギリスに連行されたが、士官はすぐに仮釈放された。フランスに戻ったディリエとブールデは軍法会議にかけられ、当初は海軍大臣のエティエンヌ・ユスターシュ・ブリュイ(英語版)も両名を非難した。ブリュイは、この艦があまりにも簡単に降伏したと思い込み、厳しい言葉で彼らの「才能と勇気」を批判した手紙を公に発表した。このブリュイの批判の程度について、イギリスの海軍史家のウィリアム・ジェームズ(英語版)は、過度に過ぎると考えている。ディリエがこれに対して猛烈に反発したことにより、最終的にこの批判は穏やかなものとなり、2人の士官は無罪放免となった。一方フットはその成功をほめられ、ウィルモット海尉は、タホ川に無事にサンサブルを送り届けたことで昇進した。フットは後にナポリ沖で「シーホース」を指揮したが、1799年のパルテノペア共和国の、2人の指導者の処刑をめぐる対立に巻き込まれることになった。
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