サイン・ハーンのバトゥ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/07 09:56 UTC 版)
ジョチの死後、長男のオルダが@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}病弱がちだったことから、[要出典]次男のバトゥが後継者となる。バトゥは後世にサイン・ハーン(偉大なる賢君)と伝えられるほどの名将で、1236年からオゴデイの命令でモンゴル東欧遠征軍の総司令官としてポーランド王国やキエフ大公国、ハンガリー王国など東欧諸国を相次いで蹂躙する。この遠征は1241年にオゴデイが病死するまで続けられ、東欧におけるジョチ・ウルスの基盤が築かれた。 しかし東欧遠征ではトルイ家のモンケと盟友になるまでの親密を築く一方で、オゴデイ家のグユクやチャガタイ家のブリらと対立。オゴデイ並びにチャガタイ没後はトルイ家のモンケを帝国後継者として支持したが、オゴデイ・チャガタイ家連合のドレゲネの政治工作に敗れてグユクが第3代となる。これをバトゥは承認せず両者の対立は決定的となるが、グユクは1248年に急死した(グユクは西征すると称して軍備を増強しており、バトゥが自らを討伐するものと察して機先を制して暗殺したという説もある)。 グユクの死後、またも両家は後継をめぐって対立。しかしチャガタイ・オゴデイ家連合には有力な人材を欠いており、帝国内長老として絶大な影響力と発言力を持つバトゥの支持を受けたモンケが第4代となり、チャガタイ・オゴデイ両家は徹底的なバトゥらの粛清を受けた。 バトゥ自身は最後まで帝国の君主となることはなかったが、黒幕としてその実力や影響力は絶大でほとんど君主と代わりはなかった。
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