サイミシュテ強制収容所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/02 10:08 UTC 版)
「ノヴィ・ベオグラード」の記事における「サイミシュテ強制収容所」の解説
1941年、ドイツ軍がユーゴスラビア王国の大部分を制圧し、占領下に置く。ナチス・ドイツの秘密警察・ゲシュタポがサイミシュテを支配下に置き、地区を有刺鉄線で幾重にも覆う。この場所はその後絶滅収容所となった。 1942年、ドイツ人はサイミシュテ強制収容所を、ベオグラードやその他の場所に住むユダヤ人を殺害する目的で使用する。1942年4月以降、サイミシュテ強制収容所の囚人は、ナチス・ドイツの傀儡国家・クロアチア独立国が運営するヤセノヴァツ強制収容所やスタラ・グラディシュカ強制収容所へと移送された。セルビアで枢軸勢力に捕らえられたパルティザン兵士や、その他のユーゴスラビア諸地域からも多くの人々がサイミシュテに送られた。強制収容所では最後まで囚人の殺害が途絶えることはなかった。 囚人にはコザラ(Kozara)地方に住んでいた女性や子ども、老人や、ベオグラードなどの街に住むユダヤ人の一家、ロマの一家や、スレム地方の複数の村の村民がまるごと捕らえられていたケースもあった。 1946年11月に、占領者および協力者の犯罪に関するユーゴスラビア国家委員会が発表した報告によると、10万人近くの人物がサイミシュテに送られ、うち4万8千人が収容所内で死亡したとしている。 1987年7月9日、ベオグラード市議会はスタロ・サイミシュテを文化遺産とし、急速な不動産開発から保護することを決めた。1995年4月21日、サヴァ川沿いにサイミシュテ強制収容所の犠牲者を記念する記念碑が除幕された。
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