ゴアリング城のシェリー準男爵(1806年)
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ビッシュ・シェリー(英語版)(1731-1815)はホイッグ党とノーフォーク公爵の熱心な支援者であったことから、1806年3月3日に(サセックス州ゴアリング城の)準男爵(Baronet, of Castle Goring, co. Sussex)に叙せられた。彼ののちは長男ティモシーが準男爵位を襲った。他方、次男ジョンも自身の権利として準男爵を授けられて、これが下記のペンズハースト・プレイスのシェリー準男爵である。 なかでも、2代準男爵ティモシーの長男パーシー・ビッシュ・シェリー(1792-1822)は「冬来たりなば春遠からじ」のフレーズで知られる詩集『西風の賦』を著したロマン派詩人である。また彼の妻メアリー・シェリーもゴシック小説『フランケンシュタイン』の著作で知られる小説家であった。 しかしパーシーは父に先立って死去したため、準男爵位は夫妻の息子パーシーが相続している。ただし、彼にも男子がなかったため、爵位は従兄弟エドワード、さらにその弟チャールズ(5代準男爵)の順で継承されて、以降は8代準男爵まで5代準男爵の男子によって相続された。8代準男爵のフレデリック(1880-1965)が嗣子なく没すると2代準男爵の系統は絶えたため、初代準男爵の次男ジョンの子孫にまで遡って準男爵位は継承された。その結果、ゴアリング城の準男爵位はド・リール子爵シドニー家に相続・統合されて、現在に至っている。 一族のかつての邸宅はサセックス州ワージングに位置するゴアリング城(英語版)であったが、小説家メアリー・シェリーが1835年に売却したことで、一族の手を離れた。
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初代準男爵サー・ビッシュ・シェリー(英語版) (1731–1815) 第2代準男爵サー・ティモシー・シェリー(英語版) (1753–1844)パーシー・ビッシュ・シェリー (1792-1822) 第3代準男爵サー・パーシー・フロレンス・シェリー(英語版) (1819–1889)ジョン・シェリー (1806–1866) 第4代準男爵サー・エドワード・シェリー (1827–1890) 第5代準男爵サー・チャールズ・シェリー(英語版) (1838–1902) 第6代準男爵サー・ジョン・コータウン・エドワード・シェリー=ロールズ(英語版) (1871–1951) 第7代準男爵サー・パーシー・ビッシュ・シェリー (1872–1953) 第8代準男爵サー・シドニー・パトリック・シェリー(英語版) (1880–1965) 第9代準男爵(初代ド・リール子爵、第7代ペンズハースト・プレイスの準男爵)ウィリアム・シドニー(英語版) (1909–1991) 以降の歴代準男爵はド・リール子爵を参照。
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